ロラン・バルト『エクリチュールの零度』

ロラン・バルト(森本和夫・林好雄訳)『エクリチュールの零度』ちくま学芸文庫、1999年10月
久しぶりに読んでみた。冒頭部分が面白い。
エベールという人がいるのだが、彼は『ペール・デュシェーヌ』紙のどの号でも、「なんてこった」とか「こんちきしょう」という言葉から書き始めると、バルトはいう。そして、バルトは、これらの野卑な言葉は「何事かを表意するもの」なんかではなく、「標示するもの」なのだと指摘する。これは、「ある革命的な状況の全体」を標示していたのだと。そして、これは「エクリチュールの見本」なのだとバルトは言う。これは、何かを伝達したり表現したりする機能なのではなく、「言語の彼方」をみとめさせるために機能している。
というわけで、バルトはこの冒頭において、言葉には、伝達機能や表現機能のほかに何事かを「標示する」機能すなわち「エクリチュール」というものがあることを提示している。
さらにバルトは続ける。<文学>もまた何事かを標示している。何を標示しているのか。それは「<文学>そのものの閉域であり、まさしく、それによってみずからを<文学>として認めさせるもの」である。たとえば、本書のなかで、バルトは単純過去や三人称を取り上げているのだが、こうした<標章>が見られるとき、人は<文学>を認知するのではないだろうか。つまりエクリチュールは、文学/非文学という区別を行い、そしてある独立した「閉域」を示す。当然だが、<文学>は自然にあるわけではない。エクリチュールは、<文学>が疑似自然であることを明らかにする。<文学>が自らを<文学>であると示す<標章>は、時代によって変化があるのだから、したがってその<標章>の「歴史」を跡づけるのも可能だろうと、バルトは提案している。
結局、この「歴史」はバルトによって追求されることはなかったそうだが、たとえば70年代から80年代にかけて、日本の近代文学で「言文一致」の研究や批評が現れたが、問題意識としてはバルトの指摘に影響されたのだろうなあと思う。
この本の序章は、なかなか面白い。

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)