石川忠司『現代小説のレッスン』

石川忠司『現代小説のレッスン』講談社現代新書、2005年6月
思っていたよりも正攻法な批評だった。批評家らしく、小説の細部を読み込んでいたし、意味不明な批評用語で煙に巻くようなところもなかったし。小説の「言葉」や「表現」にこだわっているところに好感を持つ。あとがきで著者が言うように、なんでもかんでも社会状況と結びつけて結論づける文芸批評はつまらない。この点は、著者に同意する。
著者は、現代文学近代文学の「エンタテイメント化」だと読んだ。この「エンタテイメント」という概念は、吉本隆明の評論(『ハイ・イメージ論』)を参照したという。
著者によると、近代文学(純文学)には大きく三つの特徴がある。「内言」と「描写」と「思弁的考察」だ。近代文学は、これらの言葉を洗練させる方向でやってきたのだが、それもどうやら行き詰まりに陥った。要するに、「内言」だの「描写」、「思弁的考察」なんて、読むのが「かったるい」。物語の面白さを、これらの言葉が台無しにしているのではないかというわけだ。となると、このような「かったる」近代文学を克服すべくことが、現代文学の課題となるだろう。そこで、現代文学がやったことが、これら「内言」「描写」「思弁的考察」を「エンタテイメント化」する、ということだったのだ。
「結局、純文学の「エンタテイメント化」とは、活字でありつつ物語の豊かさを目指す方向性、言葉を換えれば、物語の豊かさを目指しつつ活字に踏みとどまる方向性」(p.17)であるという。そして、これは必然的に二重の課題を担う。
一つはこれ。

一つ。それは活字が話し言葉の豊かさと対抗するために生み出した「内言」や「描写」や「思弁的考察」を蔑ろにしてはならない。つまり、単純に物語へと回帰してはならない」(p.17)

もう一つは、これ。

二つ。それは、まともに物語るためにはあくまでも「言葉のさまざまな位相」を必要とするという、いわば活字の条件=「運命」を厳密にふまえた上で、なおかつ「内言」のたぐいを果敢に「排除」もしくは馴致・「抑圧」していかねばならない。(p.18)

このようなプランが達成されれば、かつての「物語(話し言葉)」が活字の上で回復するのではないか、そう著者は述べる。
「物語」の復権は、以前から、ポストモダンの批評の頃から言われていることだから、それほど目新しい提言ではない。しかし、こうした主張することで、現代文学の良いところをなんとかして引き出そうとしている点は興味深い。私は、どちらかといえば近代文学の「かったるい」文章や表現のほうが好きなので、どうしても現代文学のなかで時折見かける「内言」や「描写」の薄っぺらいところを否定的に捉え、それゆえ現代文学は読むに耐えないと考えてしまうのだが、著者の認識は私の古い価値観を相対化する。
さて、私が面白いと思ったのは、「描写」の「エンタテイメント化」をした村上龍を論じた第一章、「思弁的考察」の「エンタテイメント化」をしたという保坂和志を論じた第二章、そして「ペラい」日本語と阿部和重を論じた第四章である*1。本書全体を通して、第一章と第二章が重要だし、うまく論じられていると感じた。あと、村上春樹舞城王太郎いしいしんじ水村美苗なども論じているが、こちらは特に目を引く点はなかった。第五章の水村美苗を論じたあたりは、やや無理があるかもしれない。
本書は、ほかにもたくさんの作品に触れているので、現代文学にはどんな作品があるのかを知ることができる。現代文学の表現の特徴を論じたことは評価したい。しかし、近代文学は「かったるい」というが、まさにこの「かったるさ」にこそ「文学」の魅力があるのではないかと考える私は、著者の主張に半分同意しつつも半分は否定的なのだ。

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

*1:しかし、日本語を「ペラい」つまり薄っぺらいと言ってしまうのはどうか。「日本語は〜〜だ」という言説には、常に注意しなければならない。著書は中国語との比較に触れて、日本語は「ペラい」と言うが、この論拠はもう少し詳しく検討する必要があるだろう。私が引っかかるのは、阿部和重の「ABC戦争」を「ペラい」日本語で読み解けるのか、ということである。