安岡章太郎『海辺の光景』

安岡章太郎『海辺の光景』新潮文庫、1965年4月
「うみべのこうけい」と読んでいたが、奥付のページになんと「かいへんのこうけい」とルビが振ってある。読み方を間違えていたではないか。読み方を気をつけないといけない。
解説を四方田犬彦が書いていたので、この小説を読み始めた。四方田は、この小説を「現前に圧倒的に立ちふさがる光景を、その圧倒性ゆえに母親の隠喩と見なして、その意味を読み解こうとする息子の物語」であると解釈している。息子の信太郎と母親の関係を重視した読みを提示していて興味深い。
もちろん、この小説は母と息子の物語だけに還元されるものではない。生や死というテーマ、狂気というテーマなどいくつものテーマを見つけることができるだろう。
母との関係でいえば、この小説では「父」の存在も気になる。小説の冒頭部分は、父と息子がタクシーに乗って、母親が入院している病院へ向かう場面である。そこで、息子は隣に座っている父の顔をまじまじと見つめている。

 信太郎は、となりの席の父親、信吉の顔を窺った。日焼けした頸を前にのばし、助手席の背に手をかけて、こめかみに黒味がかった斑点をにじませながら、じっと正面を向いた頬に、まるでうす笑いをうかべたようなシワがよっている。一年ぶりに見る顔だが、喉ぼとけに一本、もみあげの下に二本、剃り忘れたヒゲが一センチほどの長さにのびている。大きな頭部にくらべてひどく小さな眼は、ニカワのような黄色みをおびて、不運な男にふさわしく力のない光をはなっていた。(p.9)

こめかみの黒い斑点や、剃り残しのヒゲを一本、二本と数え上げる信太郎の父へのまなざし。父の顔に醜さ、不潔さを見出している。父の関係が想像できる。安岡章太郎の小説では、父との関係はあまりうまくいっていない。もと獣医という父なのだが、母親はこの父のことを絶えず不満に思っていたこと、その不満がどうやら息子に影響を及ぼしたことが述べられている。父との関係にも、母親の圧倒的な影響力があったのだ。そうすると、息子が母親の意味を読み解こうとする物語という四方田の解釈は、的を射ているようだ。母親を読み解くとは、四方田がフロイトを参照しながら述べるように、一種の起源への遡行となっており、ひいては自分は何者なのかという問いへ向かうのだろう。

海辺の光景 (新潮文庫)

海辺の光景 (新潮文庫)