阿部和重『ABC戦争』

阿部和重ABC戦争 plus 2 stories』新潮文庫、2002年6月
山形へ向かう新幹線のトイレのなかで、語り手は壁に落書きを見つける。無数の落書きのなかから、「適度な色気を得た「山形」と'YAMAGATA'」という文字を見つける――「ABC戦争」はこうして語り始められる。「ABC戦争」というタイトルが示唆するように、「文字」があるいは浮遊する記号が<アクション>=《跳躍》する、その過程をしめそうというのがこの小説だ。冒頭場面で語り手が語る「<Y>の悲劇」なる挿話。語り手は、<Y>という文字が視覚的にまた聴覚的に変容し、やがて自己同一性を失い、複数の自己を受け入れることになることを、現代思想のパロディのように語る。この妄想とも思える滑稽さと、ささいな出来事がやがてはとんでもな事件を引き起こす過剰性が阿部和重の面白さだ。

<Y>の「悲劇」がさらにその度合いを強める。なぜなら<Y>とは「ワイ」と読まれる文字であるからだ。音声化した<Y>は、記された文字それじたいからひき離され、「ワイ」が「猥」を喚起し、「猥褻」のイメージがあたりを満たすにつれ、「卑猥」な顔つきをしたものたちが「猥雑」に「猥語」を発しあう「猥談」でもりあがり、いつしか「猥本」を手に取り興奮してなにやら催し、いそいで公衆トイレに駆け込む。(p.11)

この連想ゲームのような文字=記号の「戯れ」を、「ABC戦争」が主題としている。それが、こうして冒頭で鮮やかにかつ滑稽に語られている。ここで重要なのは、こうした過剰な妄想が生れるのは、あくまで書かれた「文字」からであることではないだろうか。それは、この小説の語り手が、ある「手記」をもとに書いたものだったり、「手記」の筆者による語りを「メモ」したものをもとに書いた記録だったりする。書かれたものを別の書かれたものへと写す過程において、この小説の語り手が言うような<アクション>=《跳躍》が生じるのだろう。いわば、この小説はエクリチュールの運動そのものなのだ。
しかしながら、こうした文字=記号の戯れがある特定の文化内でしか通用せず、そしてそのことがテクストの世界を狭めることになるのかもしれないということが気になる。このことから、たとえば内輪に向けた内輪だけで楽しむ文学という批判も成り立たないわけではない。ここで、しょせん文学はサブカルチャーでしかないと開き直ってしまうことも可能だろう。阿部が、「山形」あるいは「YAMAGATA」という世界にこだわることと、テクストのローカル性の問題は繋がっているのだろうか?

ABC戦争―plus 2 stories (新潮文庫)

ABC戦争―plus 2 stories (新潮文庫)