上海

上海は何度か行ったことがあったが、一度も観光をしたことがなかった。最後の中国であるし、上海の有名な場所は見ておきたいと思い、急きょ一泊の予定で上海へ行った。

上海でぜひ見ておきたかったのが、内山書店があった場所である。谷崎ファンとしては、ここは絶対に見ておきたかった。内山書店は魯迅公園の近く、地下鉄「虹口足球場」から少し歩いた場所にある。

現在(2023年)は銀行になっているところが、かつて内山書店があった場所である。およそ百年前、ここで谷崎は中国の文学者たちと交流していたのだと思うと感動する。猛暑の上海を汗だくになって歩いてきた甲斐があるというものだ。(ここは1929年に移動してきた場所とのこと。谷崎が訪れた時の内山書店は別の場所にあったという。)

銀行の中に内山書店の記念館があるらしいのだが、残念ながら銀行が休みで開いていなかった。その後、近所にある魯迅の家を見に行く。魯迅が亡くなるまで住んでいたという家が普通に住宅街の中にあるのがなんとも不思議な感じがする。8元の入場料を払って見学する。案内係の人が中国語で説明しているのだが、中国語が全然分からない。家はそれほど大きくない。階段が狭くて急なので歩きにくい感じがする。魯迅はこんな階段を上ったり降りたりしていたのか。

それから魯迅公園をぶらぶらしてホテルに行く。夕方、外灘に行く。歩行街には大勢の人がいる。歩くのが大変だった。

翌朝、あまり時間がなかったが、かつてのフランス租界を見たかったので、とりあえず武康路を少し歩いた。有名な「武康大楼」の写真を撮る。大勢の観光客が写真を撮っていた。

 

紹興

紹興へ行く。

杭州の地下鉄5号線で「姑娘桥」で紹興の地下鉄に乗り換え。そこから50分ほど乗ると、「鲁迅故里」に到着。以前から行ってみたかった魯迅の故郷を見に行った。

魯迅の家を見る前に、少し歩いて「八字橋」に行ってみた。こぢんまりとした橋であるが、静かな古い町の中にあるのが良い。

魯迅故里は無料で見学できるが、魯迅の育った家や記念館、三味書屋などを見学するにはアプリを使って予約しなければならない。予約のやり方がいまひとつ分からなかったが、自分の名前とパスポートの番号と見学する時間帯を入力したら、なんとか予約できた。予約画面からQRコードを出し、入口の機械にスキャンさせれば入場できる。予約は1日に1回しかできない。1回の予約で全部の場所を見学できるようなことが書いてあったのだが、できなかった。魯迅の家を見たあと、近くの魯迅記念館を見ようと思ったが、記念館の入口でQRコードをスキャンさせるとなぜか入場不可で入れなかった。残念。

宿泊は魯迅故里のすぐ近くにある「咸亨酒店」に泊まった。まあまあ広いホテルで、入口から自分の部屋まで行くのにわりと歩かなければならない。

翌日、「三味書屋」を見学した後、「仓桥直街」という古い町並みが残った地区を散歩する。昔の中国という雰囲気が心地よい場所である。

 

杭州、西湖(3)

西湖に不満を持つ芥川を乗せた船は、さらに西湖を進む。

 私が西湖を攻撃している内に、画舫は跨虹橋をくぐりながら、やはり西湖十景の中の、曲院の風荷あたりへさしかかった。この辺は煉瓦建も見えなければ、白壁を囲んだ柳なぞの中に、まだ桃の花も咲き残っている。左に見える趙堤の木蔭に、青々とした苔蒸した玉帯橋が、ぼんやり水に映っているのも、南田の画境に近いかも知れない。

芥川も見た「曲院風荷」はなかなか趣きがある場所。軽く散歩するのにちょうどいい。

跨虹橋は蘇堤にある小さな橋だ。うっかりすると通り過ぎてしまう。

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こちらは玉帯橋。

曲院風荷を散策していたとき、詩碑を見つけた。

ここには白居易の詩「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」の一節が刻まれている。この詩は、左遷させられた白居易の友人「元稹」を想いながら詠んだ詩という。石碑をよく見てみると、詩碑には「藤野厳九郎」と署名されている。この時を書いたのは日本人だったのである。藤野厳九郎は魯迅の有名な作品「藤野先生」に登場する、魯迅の恩師だ。藤野先生は魯迅を思い出しながら、この詩を読んでいる。白居易元稹、そして魯迅と藤野先生の友情がここにはある。

誰も見る人がいない詩碑なので少し残念だ。

杭州、西湖(2)

芥川が宿泊した新新ホテルの目の前にあるのが「弧山」。芥川はここを散策している。

 画舫は錦帯橋をくぐり抜けると、すぐに進路を右に取った。右は即ち弧山である。これも西湖十景の中の、平湖の秋月と称するのは、この辺の景色だと教えられたが。晩春の午前では致し方がない。

たしかに、平湖秋月は実際に行ってみると、それほど良いところではない。西湖全体が見渡せる場所というところ。

其処を一しきり通り過ぎた所に、不思議にも品の好い三層楼があった。水に臨んだ門も好ければ、左右に並んだ石獅も美しい。これは何者の住居かと思ったら、乾隆帝の行宮の址だと云う、評判の高い文瀾閣だった。

孤山には公園があり、そこに入ると、芥川の言う通りに大きな建物があった。壁に囲まれていて、その建物には近づけなかった。それが文瀾閣だった。

芥川も中には入っていない。その後、芥川は「俞楼」へ行った。

 俞楼は俞曲園の別荘である。規模は如何にもこせついているが、満更悪い住居でもない。

俞曲園は清の時代の人。詳しいことは知らないが、芥川も会った章炳麟の先生ということになるのかな。

 その次に蘇小小の墓を見た。蘇小小は銭塘の名妓である。何しろ芸者と云う代わりに、その後は蘇小と称える位だから、墓も古来評判が高い。処が今詣でて見ると、この唐代の美人の墓は、瓦葺きの屋根をかけた、漆喰か何か塗ったらしい、詩的でも何でもない土饅頭だった。殊に墓のあるあたりは、西冷橋の橋普請の為に、荒され放題されていたから、愈索漠を極めている。(略)おまけに西冷橋畔の路には、支那の中学生が二三人、排日の歌か何かうたっている。

蘇小小の墓、ここは何度も通っていたがまったく気がつかなかった。芥川の文章を読んで、はじめてここに墓があるのを知った。橋のすぐわきに、ちょこんとあって、橋の装飾か何かかと思っていた。芥川は「土饅頭」と書いている。さすがに現在は「土饅頭」ではないが、似たようなものだ。芥川はその後、近くにある「秋瑾」の墓を見て、岳飛の廟に向かう。

ところで、芥川はこのあたりからだんだん西湖に不満を持ち始めてくる。中国人の自然観と日本人の自然観の違い、ということも原因の一つなのかもしれないが、一番大きな理由は、西湖が「俗化」していることであった。

湖岸至る所に建てられた、赤と鼠二色の、俗悪恐るべき煉瓦建の為に、垂死の病根を与えられた。いや、独り西湖ばかりじゃない。この二色の煉瓦建は、殆ど大きい南京虫のように、古蹟と云わず名所と云わず江南一帯に蔓った結果、悉風景を破壊している。(略)しかもこう云う西湖の俗化は、益盛になる傾向もないではない。(略)しかし私は領事どころか、浙江の督軍に任命されても、こんな泥池を見ているよりは、日本の東京に住んでいたい。……

杭州の街には、1920年代に建てられた西洋風の建築物がある。歴史的建築物として保存されているのだが、これらの建物を見ると芥川の言うようにたいてい「鼠色」だ。煉瓦はあまり見かけない。芥川が中国に来た1920年代は、都市が西洋化しつつあったのだろう。古い町に容赦なく西洋が入ってくる。伝統と最先端がごちゃごちゃに入り交じった都市。杭州は現在もそんな感じ。