吉田喜重『炎と女』

◆『炎と女』監督:吉田喜重/1967年/現代映画社/103分
たとえば『去年マリエンバードで』のように、非常に抽象化された物語だと感じた。物語は、終始「子供は誰のものか」という問いを巡って展開する。主要な登場人物は二組の夫婦なのだが、両方の夫婦ともにディスコミュニケーション状態にある。それは、妻と夫が会話をするとき、たいてい壁や柱など、画面をあたかも二分割するように二人の間に挿入されている。また、男が女に近づけば、女はそれを避けるように逃げ去る身振りが何度も出てくる。この女の身振りは、もしかすると吉田映画の特徴なのかもしれない。抱擁の場面において、女は男をまるでじらすかのように、何度も男から逃げ去り、男は女を追う。そうした男と女の戯れの運動には注目してもいい。
「子供は誰の子なのか」と問い続けるのは、それによって自分のアイデンティティを確認したいがためであることは理解できる。家族のなかで、「父」であり続けようとするのなら、何が何でも子どもの「父」であるしかない。子どもが作れない男なのだが、それでも「父」になろうとする。「父」であることを確認しつづける。だから、子どもの存在が必要なのだ。また、それは母にとっても同じことなのだろう。ラストシーンで、林の中を、父と母が乳母車を押して散歩しているのだが、そこで交わされる会話が、「パパは誰ですか」とか「ママは誰ですか」と子どもに問いかけなのだ。これは、夏目漱石の『道草』の挿話を想起させる、ある意味、子どもにとっては残酷な問いなのかもしれない。