吉田喜重『人間の約束』

◆『人間の約束』監督:吉田喜重/1986年/西武セゾングループ・キネマ東京・テレビ朝日/124分
この映画をもう一度見たのは、やはり『ユリイカ 総特集吉田喜重』(2004年4月臨時増刊号)にある、蓮實重彦「影とフィクション――吉田喜重論」に強く触発されたためだ。
この評論で蓮實は、吉田の「変化」を指摘している。吉田は、『エロス+虐殺』で頂点に至った独自の方法を、この『人間の約束』ではきっぱりと放棄しているという。その「変化」とは何か。それは、「たった一つのショットによる視界の決定的な異化作用にかわって、ここでは、編集という古典的ともいえる手段が、吉田の想像力をことのほか刺激し始めたのだといってもよい。」(p.201)
こう指摘したあとに、「たとえば」と称して何の変哲のない、ある一つの場面を提示する。

 たとえば、飾り付けが終った祭壇の前に一家の主人(河原崎長一郎)が初めて立つ通夜の日の場面を思い出してみるなら、それがたがいに補い合う二つのショットの連鎖からなっていたことを誰もが記憶しているはずだ。まず、位牌ごしに見られた部屋の全景があり、祭壇に視線を送る主人が中央に立ち、葬儀屋の若者がかたわらで縁側の障子を音もなく閉めているさまが示される。河原崎長一郎の無言の表情のクローズアップがそのショットに続くのだが、そのとき、いままさに閉められつつある障子の影が、母親の遺影に見入っているはずの彼の頬から顎にかけて、ゆっくりと移動してゆくのを誰も見落としはしなかったはずだ。(p.201)

「誰もが記憶している」「誰も見落としはしなかったはず」と二度に渡って強調される、この場面。私は、残念ながら初めて『人間の約束』を見終わった時に覚えていなかった。それがなんとも悔しくて、どうして「見落としはしなかったはず」の場面を記憶していない自分の腹が立った。あまりに悔しいので、もう一度『人間の約束』を見て、この場面を確認してきたのだ。
見てみると、たしかにこの場面がある。河原崎長一郎の顔に影がすーっと移動していく場面が、ほんの短い時間だが、確実に映っていたのだ。この映像を見て、愕然とした。最初に見たときも、この場面が目に入っていたはずなのに、指摘されるまで気が付かないなんて…。
それはともかく、蓮實の論を追ってみると、この場面の特徴が以後の吉田の演出を特徴づけることになると言い、「二つの異なるショットを時間的=空間的な連続性として提示し、前者の運動を後者に反映させるというこの念入りな編集が、かつて難解といわれた吉田喜重の最近の作品に、ある種の「読みやすさ」」をまとわせているのだが、しかしこの「持続」がそれ自体視覚的ではないが故に、「真の意味での「読みにくさ」」を招き寄せているのだ、と主張する。
こうした観点から、『人間の約束』『嵐が丘』そして『鏡の女たち』が論じられていく。この論は、吉田喜重論としては非常に刺激的で、私はもう脱帽するしかない。それにしても、この重要な場面を記憶していなかったということが悔しい。「自分の目は節穴なのか?一体ほんとうに映画を見てきたのか」と反省する。映画を見る目を、もっと鍛えなければと思う。