吉田喜重『エロス+虐殺』
◆『エロス+虐殺』監督:吉田喜重/1969年/現代映画社/168分
昨日に引き続き、この映画の上映後にも吉田喜重と岡田茉莉子のトークショーが行われる。正直、監督自身の解説がなかったら、私はこの映画を少しも理解できなかっただろう。監督は、何度も映画は観客が自由に想像力を使って見ることができるのだから、監督が自分の作品について何かを言うのは危険だと言う。
たしかにその通りで、この映画は「空白」が多い。文字通り、画面の大半に「空白」があったり、物語的にも「空白」の部分があり、その「空白」を観客は想像力で補っていかないと、この映画は何が何だか分からないだろう。
トークのなかで、監督はこの映画では、まず歴史をどう映画で扱うのか、歴史と物語の問題を考えたそうだ。映画で「歴史」を取り上げると、それは物語になってしまうと。この点について考えていたらしい。
あとは、日本の近代史、近代化の問題。天皇を父として国民を支配する国家。それが日本の近代だったと。この映画で取り上げた大杉栄は、自由恋愛、男女平等の恋愛を理想として、三人の女性と同時に付き合っていたのだが、これが天皇制への批判となる可能性があったのだと言っていた。だから、大杉栄は非常に面白いと。ここに性と政治の問題が浮かび上がってくる。
それとの絡みでいえば、女性の支配・抑圧という問題も監督はしきりに口にする。映画にせよ、何にせよ、女性は常に男性から見られる存在であったこと。それが国家だったし、映画でもそうだったと。だから、女性が男性を見つめ返す、ということで伊藤野枝が登場するのだろう。
中心から一方的に見つめる関係ではなく、互いに見つめ合う関係をどうやらこの映画に取り入れたらしい。この映画は、過去(伊藤野枝と大杉栄の物語)と現代(一九六〇年代の若い男女の物語)で構成されている。監督が言うには、過去は現在から一方的に見られるだけではないのだと。この映画では、過去からつまり伊藤野枝の視点から現在がどう見られるのか、ということも重要な問題点となる。その意味で、ラストで過去の物語を演じた人々スタジオに一同に集まり、現在の物語の男女が記念写真を撮る場面は、過去と現在の対話であろうし、過去を「現在」として語ろうとする行為は、まさしく映画の語りそのものでもある。映画は、つねにあらゆるものを「現在」としか語るものなのだから。
トークを通じて感じたのは、監督は「権力」を常に問題化してきたのだなあということだ。国家の権力、家族制度の権力、そして物語(あるいは映画)の権力。映画の「権力」に関しては、こんなことを言っていた。たとえば、小津の映画では、画面の中央に人物を配置している。これは、観客にこれを見よと強制してしまうと述べていた。だから、吉田監督としては、画面の中央に「空白」を置いたりして、映画の持つ権力への抵抗を『エロス+虐殺』では行っている。このように「権力」を批判すること、そしてできる限りこの「権力」から遠ざかること。吉田喜重の映画とは、そのような挑戦の連続だったのであろう。この辺は、もっと映画を見て考えていきたい。でも、それにしても、この映画は難しい。