殴る/殴られる

◆『東京の女』監督:小津安二郎/1933年/松竹蒲田/白黒/無声・不完全/47分
◆『母を恋はずや』監督:小津安二郎/1934年/松竹蒲田/白黒/無声・不完全/72分
戦前の小津映画をスクリーンで見る機会など、そうそう訪れないだろうと思い、この絶好の機会を逃すまいとはりきって見に行く。
岡田嘉子主演の『東京の女』は、小津映画の一つのテーマがはっきりと現れた映画だった。
この前に見た『宗方姉妹』で、妻(田中絹代)を疑う夫が、口論の末に激しく何度も平手打ちをする場面があり、私はいくらなんでも殴りすぎなのではないか、と驚きを感じた。
きょう見た二つの映画にも、この「殴る/殴られる」というテーマがあり、とても興味深い。特に、『東京の女』は『宗方姉妹』へと完全に反復される。
姉(岡田嘉子)は弟のために、昼は会社で働き、夜は酒場女として働く。そして、その品行が警察にまで疑われ始める(このあたり戦前の社会なんで、今ならなんで?と思うことが多い)。姉が、夜に酒場で働いているということを恋人から弟は聞く。弟は、帰宅した姉にそのことを問いただすのだが、ここで弟は姉を激しく殴るわけだ。『宗方姉妹』と同じように、何度も平手打ちをする。そして、部屋を出て行く。
女に疑いを持つ男が激しく女に平手打ちをする、というテーマが、『東京の女』から『宗方姉妹』へと繰り返されるのだ。女は、男に全身をもって信用してほしい、ということを願うが、その願いは最後まで男に届かない。『東京の女』にせよ、『宗方姉妹』にせよ、殴った男には「死」が待っている。小津映画らしからぬ激しいドラマを見せる、この殴打シーンは、殴った「男」を「死」に至らせるという機能を持っているのだ。『東京の女』では、姉を殴った弟は自殺という結末を迎え、『宗方姉妹』では、夫はたしか心臓麻痺で急死する。しかもまるで自殺のように。
『東京の女』では、その後、姉がどうなるのかは描かれていないが、『宗方姉妹』ではずっと好きだった男性と結局結婚することができなかった。夫の「死」が、結婚を許さないのだ。
激しく何度も平手打ちをするのは、やはりサイレントだからだろうか。どうして、小津がこの演出にこだわるのかがいまいち分らない。『母を恋はずや』でも平手打ちに場面があって、ここでは残念ながら、女を疑う男が殴るのではなく、弟が兄を殴ると人物が入れ替わっている。しかし、信頼や絆を疑う人物が、相手を殴るという意味ではほぼ同じテーマであると解釈しても良いだろう。殴られた兄は、その後きちんと家を出て行くのだから。
「淡々とした」映画、としばしば形容される小津映画だが、このように激しい感情を伴った運動の場面があることは注意しておきたい。けっして、淡々とした場面ばかりを撮っていたわけではないのだ。