小津映画の豊かさを知る

蓮實重彦『監督小津安二郎ちくま学芸文庫
最近あらたに出た『監督小津安二郎』ではなくて、わざわざ古本で、この文庫版のほうを買って読んでみた。実は、この本を読むのは初めてになる。どうも好きなものは、後にとっておく癖があって、蓮實重彦の批評のなかで一番読みたいと思っていたこの本を、今の今までずっと取っておいたのだ。
しかし、今年、小津の映画をいくつかみて、やはりこの小津論は読んでおかねばなるまいと思い、ようやく読む決心がついたというわけだ。
小津の映画を見た後なので、なるほど書いてあることがよく分る。だからすごく面白かった。
小津の映画では、階段が写らない、というのをあらためて指摘されると、たしかに階段を真正面から写した画面の記憶がないのだ。だけど、『秋刀魚の味』のラストでは、この階段が写っているとあって、この映像をはっきりと覚えていない私は、なんともくやしい。こんな重大な映像を見逃しているなんて…。私の目はふし穴か、とくやしがる。
これまで、小津映画を語る人々は、一様に「〜がない」という否定形で語ってきた。しかし、この本は、そのような「〜がない」という欠如を指摘した否定で語るような貧しさにまっこうから対立する。ここでは、画面に写しだされている「細部」(けっして画面に写っていないものではない)を積み上げていくことで、小津映画に対する批評の「貧しい」言説を相対化する。「細部」を積み上げることで、自ずと理解できるのは、小津の映画の「豊かさ」である。小津の映画には「〜がない」などと軽々しく言うことはできないだろう。「〜がない」と小津の映画を指摘して何かを語ったような人は、画面を見ていない人であると言えるだろう。わたしたちは、そのような凡庸さから小津映画を解き放たなければならない、と思う。だから、せっせと小津の映画を上映している映画館に足を運ぶわけなのだった。