無秩序の世界

吉田喜重小津安二郎の反映画』岩波書店
映画監督吉田喜重が、小津安二郎を論じる。小津映画の何が魅力なのか、よくわかる一冊。これから小津映画を見るときに参考になるだろう。
吉田が小津映画に見るのは「無秩序」である。同一性よりも無秩序を好むのが小津なのだ、というのがこの本の主旨ではなかろうか。
それは、吉田がしばしば口にする「反復とずれ」という小津映画の特徴に象徴される事柄であろう。小津映画では、同じ場面や、一見すると同一に見えるショットが反復されることがあるが、それは絶対に同一なものではない。かならず、反復にはずれが含まれていて、けっして同一化することはない。それが、小津映画の特徴だろう。
吉田は、小津の世界観を「無秩序」にみている。

おそらく小津さんはこの世界を無秩序なものとして捉え、それに見合うかのように映画の表現もまた無秩序であり、まやかしにすぎないと考える人であった。(p.294)

たとえば、『東京物語』を吉田は、さまざまな眼差しが反映しあう世界だと見ている。そこには、一つの世界に収斂させる特権的な眼差しは存在しない。それぞれの眼差しが相対的に交わるのだ。

東京物語』を数限りない眼差しの反映しあうドラマに見立て、言葉では容易に捉えがたい黙示録として読み取ろうとしたのも、そうした意味にほかならなかった。事物の眼差し、不在の眼差し、不可視の眼差し、無秩序なる人間の眼差し、聖なる彼岸の眼差し、秩序ある他人の眼差し、あるいは水の輝く揺らめきに宿る死者の眼差しといったものが、たがいに行きかい、限りなく乱反射しながら、あたかもこの世界の無秩序さに見合うかのように混在し、決して中心の主体となるような眼差しによって統一されないのが、小津作品のありようであった。(p.232)

サイレントからトーキーへ移り、さらに現在に至るまで映画の技術はかなり高度なものとなってきた。そこには、より「自然」な映像を目指す工夫もあったのだが、たいていの映画監督や映画の観客が「自然」だと感じるものを、小津は逆に「不自然」なことだと捉えていたと吉田が述べている。たしかに、映像が「混濁」したり「不連続」であったりすることを、通常は回避するところ、小津の映画ではむしろ積極的に取り入れているているように思える。小津の映画を見ることで、私たちの視線のあり方をもう一度反省してみる必要があるのではないか。何を「自然」だと感じるのか、何を「不自然」だと、私たちの視線は捉えていたのか?