吉田喜重『血は渇いてる』

◆『血は渇いてる』監督:吉田喜重/1960年/松竹/87分
吉田喜重の2作目となる作品。小津の映画では、平均的なサラリーマンを演じていた佐田啓二が、この作品では暗い青年を演じている。
マスコミによって作られた「偶像」を、やがて自分の本当の姿ではないと錯覚してしまう若いサラリーマン木口高志(佐田啓二)。だが、誰もコントロールすることができなくなった「偶像」は、最後にこのサラリーマンを破滅へと追いやってしまう。
「偶像」を作り出し、それをもてはやし、その流行が去られば見向きもしなくなるマスメディア、あるいは大衆を批判的に描く。作られた「偶像」と本当の「私」という主題は、のちに『告白的女優論』に受け継がれる主題であろう。
思うに、「偶像」とはたとえば一枚の巨大なポスターに象徴されるような、厚さを持たない、薄い「表面的なるもの」のことなのではないか。冒頭、今まさに自殺を決行しようとする男(佐田啓二)が、トイレの鏡で自分の顔を見ている。鏡、それは吉田喜重の重要な主題となるものだし、ここでは佐田啓二がひどく汗をかいているということから、水とも組み合わさっている。つまりこの映画の冒頭場面は、「鏡」と「水」があり、そして「死」へ向かう男がいるということで、吉田的主題が勢揃いしている見逃せない場面であろう。そして、さらにここで重要なのは、この「鏡」に映った自身の姿、これこそがまさしく「偶像」なのではないかと思える点である。
以後、佐田啓二は、表面的になった「自分」の姿=「偶像」と闘い続けることになり、やがて破滅させられることになるのだから。
大衆のアイドルとしてもてはやされる男を利用して、社会を動かしてやろうという野心を持つ女の野中(芳村真理)も面白い。結局、この女もこの「偶像」をコントロールしきれなくなり、最終的に野望が潰えることになるが、その時自棄になってダンスをしている場面が興味深い。
このダンスの動きは、見ていると非常に不器用な動きに思える。よく見ていると、ひたすら体を回転させているだけなのだ。体をクルクルと回転させ、同じ場所をまわっている。ただ、それだけのダンス。この回転運動は、『甘い夜の果て』の津川雅彦が取り憑かれていた運動なのだ。この男もまた、野心を秘めた人間だったことを思い出そう。他人を利用して、自分の野望を達成しようと望む人間は、つねに回転運動に取り憑かれ、いつまでもその回転から抜け出せなくなってしまう。初期の吉田映画の特色であると言えるだろう。
メディア批判のテーマ自体は、現代では紋切り型の物語で、それ自体に面白さはないが、吉田映画の核となる主題が、この作品には登場してきており、その意味では非常に重要な作品である。