不自由の寛容、自由の不寛容

人に自慢できるほどではないけれど、私自身はわりかし部屋をきちんとしておくほうだ。部屋に荷物を散乱させたり、ゴミを放っておいたままということはない。乱雑に散らかった部屋よりも、きちんと整理整頓された部屋のほうがいい。(極端に言えば、人間臭い部屋よりも、未来都市のイメージにあるような人間の臭いを感じさせない、ある意味息苦しさを覚えるような無機質な部屋に憧れている。)
きちんと整理整頓することを好む人と、整理が苦手な人がたとえば共同の部屋などで生活するようになると、けっこうつらいことがあるだろう。だらしない生活をする人にとって、つねに整理整頓を心がける人の存在はうっとうしいにちがいない。逆に、きちんとする人にとっては、だらしない生活をする人が、部屋をすぐに乱雑にしてしまうので不快な思いを抱く。まことに他人と共に生活するということは難しい。
だらしない人にとって、きちんと整理しろ、と言われることは自身の自由な生活を侵されることを意味する。「整理する/しないは、私の勝ってではないか、他人に指図されることではない」というわけだ。こういう人たちにとって、「きちんとせよ」という言葉は、価値観の強制と感じる。だから、「きちんとせよ」などと私に命令するな、自由にさせよ、価値観の押しつけはいけない、というように整理整頓をしたい人に反論するだろう。
しかし、逆の立場から考えてみよう。きちんと整理したい人にとって、部屋を乱雑に散らかされることは、きちんとしたいという自由を奪うことを意味する。整理整頓がよいという価値観も一つの立場だとしたら、乱雑にする自由も一つの価値観でしかない。したがって、整理整頓したい人にとって、他人に乱雑にされることは、価値観の押しつけに思える。整理整頓したいという自由を奪われていると感じるのだ。
ここから飛躍してみる。だらしない人というのは、きちんとしたい人の自由を認めない。きちんとしたい人は、実は寛容を持っているのではないか。つまり、自分はきちんとしていたい、が世の中にはきちんとするより散らかっていても良いと思う人もいる、そういう人に「きちんとせよ」としても押しつけと思われるから、こちらが我慢すればよいだろうと。しかし、だらしない人というのは、きちんとしたい人の整理整頓していたいという自由に不寛容だ。だらしな人は、整理整頓したい人もいるのだから、その価値観を認め、整理整頓するのを受け入れようとは思わない。整理整頓することは、自分の乱雑にすることの自由を奪うことに他ならないからだ。実は、秩序を守る人のほうが、秩序を壊したい人よりも寛容である。秩序を守る人は、秩序を壊したいと思う人が世の中にはいる、ということを受け入れて、そうした価値観を認めるが、逆に秩序を壊したい、自由でありたい人は、自由を妨害する人の価値観を認めないし、そうした自分とは逆の立場の人たちがいることを受け入れようとしない。というか、想像できない。そう、自由を求める人たちは「自由」というたった一つの価値観しか認めない不寛容な人たちなのだ。
自由を求める人というのは、秩序を求める人を排除する人のことなのではないか。秩序を求める人のほうが寛容なのではないか。もしかすると、このようなねじれがあるのではないか。私は、今「自由」の持つ逆説さを感じている。
しばしば、私たちは、だらしのない人をわがままだなとみなすことがあるだろう。それは、とりもなおさず、この不寛容さから生じるのではないだろうか。
さて、ここまで私が前提にしているのは、きちんとしたい人は、だらしがない人のだらしなさを、我慢して受け入れるが、逆にだらしがない人というのは、きちんとする人のつねにきちんとしていたいという自由を受け入れない、ということがあるのではないか、ということである。まあ、この前提は思いこみに過ぎない、間違っているものであれば、この文章は何の意味も持たない。しかし、世の中にはきっと、だらしない人のせいで日々困っている整理整頓好きな人がいるはずだと、そんな一縷の望みにかけて記してみた。