『「伝統」とは何か』

大塚英志『「伝統」とは何か』ちくま新書、2004年10月
私は『物語消滅論』について、どうしてこのような本を書いたのか理解しにくいと感じたが、もう一冊の新刊であるこの『「伝統」とは何か』もまた私には理解しにくい。はっきりと「民俗学」批判あるいは「柳田國男」論として書いてくれたら、まだ納得できる内容だと思う。だけど、この本がどうして「伝統」の創造に関する本なのか?私にはその意図が分からない。「民俗学」も「柳田國男」も「伝統」と大きな関わりがあるからだ、と言えばたしかにそうなのだが。
江藤淳と少女フェミニズム的戦後 (ちくま学芸文庫)サブカルチャー文学論
だけど、どうして今更「伝統」は創られたものだ、ということをこうしつこく強調するのか、という疑問は当然生じるだろう。大塚は、たしかにこういう疑問に対して、「伝統」は創られたものにすぎないとニヒリズムで終るつもりはないと述べ、「伝統」の創られた過程をこの本で検証しようとした。大塚は言う、「他人の「伝統」を「つくられ」たものだと批判するより前に、自分たちの立ち位置を検証することは、いかなる立場においても必要なはず(p.205)」だと。「いま、ここ」にある「私」なり社会が成り立つには、そうなる「歴史」が必ずある。大塚が一連の江藤淳論のなかで取り出した江藤淳歴史観だ。大塚は、「いま、ここ」に至った「歴史」を検証することで、「いま、ここ」のメタ的な位置に立ち、その位置から「いま、ここ」を批評する。この本は、大塚のそうした批評の原理がよく現れていると言えるだろう。
この本で、大塚は柳田なり民俗学がいかに「政治」と関わってきたかを批判的に検証している。特に民俗学への批判は、激しい。一方、柳田に関しては、ある一時期に可能性を見出し、それを大塚自身の近来の主張である公共性の創出という問題へと接続している。
その時期とは、柳田が朝日新聞論説委員をしていた1920年代だ。この時期、柳田は普通選挙に関する論をさかんに発表していたという。柳田は普通選挙の実施を求める先頭に立っていたのだ。
大塚が柳田の普通選挙論に注目したのは、普通選挙が実施されたとしても、たとえば地元の有力な人間からお金を渡されて票を集めたり、そのようなあからさまな買収がなくても、一人の中心人物によって選挙が影響されてしまうという結果になってしまうことを柳田が批判していたからだ。柳田は、一人一人が「個」として自立した投票をすることを考えていたというわけだ。

柳田は『世相篇』第十三章「伴を慕う心」の中で「気軽に判断を他人にまかせて」「群の快楽、我を忘れて」いる限り、良い選挙民たりえない、とはっきり記しているのである。(p.142)

大塚は、柳田に「「公民の民俗学」があったことは、やはり柳田の可能性」として評価する。一人一人が「個」としての自由を持ち、その「個」が集まって議論することによって「公共」空間を作り出すという大塚の主張と、この時期の柳田の考えが一致する。あるいは大塚がそのように読み込んだのかもしれない。
このような大塚はまた柳田の「世間話の研究」を評価する。この論文において、柳田は「世間とは自分たちの共に住む以外の地域、他郷」と定義し、したがって「世間」とは自分たちの帰属する世界の「外側の現実」であり、それは「閉塞した現実」に風穴を開けるものだった。大塚の求める「公共」とは、この「世間」に他ならない。

つまり「世間」とは秩序だった構造体ではなく、世界を更新し公共性を発生させるツールとして、あくまでイメージされていたのである。「世間」とは、これから作られるべき公共性の名だった、とさえいえよう。(p.196)

大塚によれば、残念ながら、こうした「世間」観は戦後になって柳田のなかで退行してしまう。戦後になると、この柳田の「世間」は「群れ」の空間、既存の秩序に従う空間へと変化してしまうのだった。
「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)
こうして大塚は、自分自身の「歴史」観や「公共性」を、柳田の著作になかに読み込んでいく。しかしながら、当然このような思想には批判もあるだろう。自己決定する「個」の確立にしても、たとえば仲正昌樹による批判があったはずだ。おそらく、だからこそ、大塚は「自分たちの立ち位置を検証すること」が必要だと最後の書いたのだ。自己決定する「個」すなわり主体性というものは、それぞれの「歴史」によって、多様なかたちを取るだろう。このような「個」が創出する公共空間を大塚は求めている。

<伝統>とは何か (ちくま新書)

<伝統>とは何か (ちくま新書)