小川洋子『薬指の標本』

小川洋子薬指の標本新潮文庫、1998年1月
文庫本にある解説は、布施英利が書いているが、冒頭にこう書いている。「小川洋子の小説ではしばしば、体が消えていく、ことが描かれる。」
これは、たしかにその通りだと思う。指摘通り、表題作「薬指の標本」も身体の消滅が一つのモチーフになっているし、もう一つの小説「六角形の小部屋」も消えることが、モチーフになっていると読めないこともない。私の記憶では、タイトルが出てこないけど、『妊娠カレンダー』のなかに収められている作品にも、人が消えていくことが描かれた作品があったはず。また、私は未読なので推測でしかないのだけど、『博士の愛した数式』も消えること(ただしここでは「身体」ではない)が、モチーフになっているのではないか。
というわけで、小川洋子の作品における「消滅」という主題は、非常に重要でかつ興味深いものがある。布施は、この「消滅」という主題が、なぜ現れるのかを問い、「消滅」は「今の時代の特徴」なのだと述べる。

バーチャル・リアリティに代表される新しいテクノロジー環境は、ぼくたちの身体感覚をどんどん希薄なものにしている。身体を消滅させている。小川洋子の描く身体感覚は、まさにそんな時代の感覚そのものである。(p.184)

時代状況と付き合わせて考えてみれば、こういう解釈もあり得るだろうし、私も妥当なところだとは思うが、一方でテクストに沿った形で「消滅」という主題の意味を考えてみたいとも思う。私にそんなことが出来るのかといえば自信はないが。
さて、この文庫に収められた作品には、「消滅」という主題のほかに、もう一つ別の主題もありそうだ。それは、「拘束」という主題のことである。「拘束」という主題は、とくに「薬指の標本」のほうで顕在しており、中心テーマとなっている。「消滅」と「拘束」は、ここでは強い強い関連があるのだ。なにしろ、形あるものからないものまで、なんでも標本にしてしまう弟子丸氏という男が登場するのだ。標本にするというのは、試験管の液体のなかで永遠に拘束されてしまうことにほかならない。弟子丸氏は、拘束を行う者であり管理者であるのだ。
そして、弟子丸氏に「拘束」=「標本」にされるということは、「消滅」することにもなるだろう。だが、弟子丸氏のもとで働くことになる「わたし」は、徐々に弟子丸氏に拘束されることを欲望する。標本になることは、この世界からの消滅ともいえるのに、なぜ彼女は自らすすんで標本になる/なろうとするのか。ここが読みどころとなるのだろうけど、これに答えるのはけっこう難しい。私には、いまのところなぜなのか分からない。一体、何でだろう?
もう一つの「六角形の小部屋」も「拘束」が主題だ。この物語には、移動式の六角形の小部屋を持つ「ミドリ」と「ユズル」という親子が登場する。人が一人分入れるスペースの小部屋に、宣伝もなにもしていないのに、人々が集まってくる。そして、人々は小部屋のなかで、ただ何かを語るだけだ。だが、みなそれで満足ているかのように、小部屋に入り数分して出てきてはお金を置いて帰って行く。そんな不思議な小部屋に、主人公の女性は興味を示す。そして、自ら小部屋に入り、そこで自分のことを語り出す。誰も聞いている人はいない。
このように、やはりここでも小部屋に「拘束」されることを望む人間が登場している。小部屋に入り、自分自身のことを語るという行為は、「拘束」されることによって、逆に自分の内面が自由になる、解放されることを意味している。「拘束」と「解放」。この両義的な空間が、六角形の小部屋であるというわけなのだ。自由を奪われることで、逆に自由になる。そう考えると、「薬指の標本」で、標本にされることは、何かからの解放とも言えるのだろうか。とすると、それは何からの解放なのか?
だんだん小川洋子の作品が面白くなってきた。もっとたくさん読んでみたいと思う。

薬指の標本 (新潮文庫)

薬指の標本 (新潮文庫)