浅羽通明『アナーキズム』

浅羽通明アナーキズムちくま新書、2004年5月
今まで、浅羽通明の本はあまり好きではなかったけど、この本は面白かった。アナーキズムがどんなものなのか、よく知らなかったし、ましてアナーキズムの思想家の本などこれまで読んだことがなかった。なんとなく「危ない」思想という先入観があって、関心が湧かなかったのだ。
しかし、この間『エロス+虐殺』を見て、大杉栄が気になった。大杉栄といえば、日本で最大のアナキストだと言える人物だった。
一切の権力を否定し、個人の自由を尊重するアナーキズムと、そのような強い自我を否定し、相互扶助・相互監視で秩序を保つ農本共同体的なアナーキズムの二つが日本のアナーキズムにあったことが指摘される。誰にも頼らない強い個人と、そうした強い個人を消して仲間内で一体となる共同体主義という二つの面。強い個人を望む側にとっては、近代的自我以前のこうした共同体主義いわゆる「世間」には我慢ができないだろう。相容れない二つのアナーキズム。浅羽は、この矛盾する二つのアナーキズムを対立させるのではなく、共存させる道を主張する。ノージック網野善彦などを参照して、複数の秩序、社会原理が棲み分けることで共存させようというのだ。

 ここから、不自由な「世間」も、強い個人から成る戦士共同体も、それぞれ居所を得る多様性ある世の中、不自由を選ぶ自由も許容される、メタ・アナーキズムの構想が導けないだろうか。(p.279)

このアイデアに、共感を覚える。私自身が強い個人になれそうにないし、どちらかというと不自由や不快なことがあっても、ぬくぬくとした「世間」のほうが良いと思っていたからだろう。以前の日記で、ほどほどの自由で良いと書いたことを思い出した。
私も個人の自由は理想的だと思うし、「世間」の不愉快さも充分に知っている。でもやっぱり「世間」的な安心・安全なほうがいいという気持のほうが強い。監視社会は嫌だけど、だけど危険と隣り合わせの「自由」な生活も嫌だというわけだ。だから、棲み分けというアイデアはけっこう良いものかもしれない。個人の自由を絶対とする人と、やっぱり世間のなかで暮したいという私のような人が、ともに存在していける世界。そのような多様性のある世界なら歓迎だなと思う。

アナーキズム―名著でたどる日本思想入門 (ちくま新書)

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