世界と個人あるいは歴史を記述すること

武田泰淳司馬遷――史記の世界』講談社文庫
なんとか四苦八苦しながら、読み終える。いや、とりわけ難解な内容の本ではない。ただ、私が中国についての司馬遷や『史記』について何の知識も持っていないので、読んでも理解が出来なかったということ。でも、竹内好の解説を読んで、ほんの少しだけ武田泰淳がこの本で何を書こうとしたのか分かった。その解説の部分とは以下の通り。

作者をとらえている関心は、人間とは何かということと、全体把握はどうすれば成就されるかという問題である。(…)歴史はつきつめれば記録である。それでは、記録されたものと記録する者との関係はどうであるか。生き残るということはどういう意味をもっており、それは客観的な世界存在とどうかかわるか。その問題をつきつめることが当時の彼の最大の関心であった。(p.231)

これは、けっこう現代的な問題だと思う。ポストコロニアルが定着しつつある現在、こうした問題、すなわち歴史記述はいかにあるべきか、歴史を書くことの意味、その可能性/不可能性が議論されている。特に、「記録されたものと記録する者との関係」などは、いまでも充分にアクチュアルな問題だと言える。とするなら、本書は武田泰淳がこの問題をいかに論じているのかということに関心を集中して読めば良かったのか。歴史を記述すること、というテーマでもし何か書かなければならなくなったら、武田泰淳の場合として考えてみても良いだろう。
とりあえず、関連することをメモしておく。

司馬遷の前にくりひろげられていた世界は、わたくしたちの前にくりひろげられている世界とは、くらべものにならぬ程狭いものであった。しかし、狭くても、それが漢代の世界であった。それが司馬遷の世界であった。そして司馬遷はやはり「世界全体」のことを考えたのである。(p.59)

本文第二編の「「史記」の世界構想」章の冒頭部分である。当時漢の時代の人にとって、目の前にある世界は「世界全体」であり、世界に関わることは「世界全体」に働きかけることを意味していた。個人でも「世界全体」を変える力を持っていた、ということだ。こうした自信というのは、現在の私からするとうらやましい。私が何をしようと、「世界全体」は何の変化も起きない、ならば何もせずにいてもいいではないか、という実感が現代に生きる私にはある。そもそも「世界全体」などというものの存在は、すでに散々批判されて今や存在しないという認識が常識となっている。だからこそ、歴史を記述することが、改めていま大きな関心となっているのだが。
司馬遷にとって、漢は「世界全体」であって、漢の歴史を記述することは、「世界全体」を記述することに他ならなかった、というわけだ。
それから、武田泰淳は「世界の歴史は政治の歴史である」(p.61)と述べる。「「史記」の意味する政治とは「動かすもの」のことである」と。したがって、歴史を動かす者それはすなわち「政治的人間」と言い、それが「史記」の主体をなす存在であるとする。「政治的人間は、世界の中心となる。」(p.61)
しかし、そもそも「政治的人間」とは何者か?と問い直される。そして、それは「人間」だという。世界を動かすもの、それは「人間」であると。だから、世界の歴史を記述するとき、まず「人間」をきわめなくてはいけない。司馬遷が描こうとしたもの、それは「人間」であったのだ。
というのが、冒頭部分の流れだろうか。「人間」の姿を見つめているうちにいつしかそれは「政治的人間」となり、司馬遷の世界構想が現れるというが、「人間」が「政治的人間」となる瞬間をどのように見極めるのか。このあたりを注意して本書を読んでみたらいいのだろうか。
それにしても、この「政治的人間」という言葉、ちょっと気になるというか気に入ってしまった。何かに使えそう。