「恵まれた」人間は、社会批判をする資格がないのだろうか

大正時代の有島武郎とか、その周辺の文学者、すこしあとだと太宰治のような文学者たちの苦悩は、現代でもすこしも解決されていないのだなあと思う。
たとえば、幸か不幸か「恵まれた」*1環境にいる人がいるとする。そして、彼らがいくらプロレタリアの階層のために、社会変革を求めても、貧しい人たちから「なんだよ、お前ら恵まれてんだろ」といわれて相手にされない。「お前らに、貧乏人の生活がわかるか」と言われるのが落ちだ。そういわれると、たまたま「恵まれて」しまっている層の人間は、何も言えなくなる。真面目な人は、自分が恵まれていることに「罪」の意識なんか感じてしまったりするだろう。たまに、「恵まれた」生活を一切捨てて、ホームレスになってしまうという選択する人もいて、それはそれですばらしい決断だと思う。が、しかし、「恵まれた」環境を捨てなければ、理想社会を追い求められないというのはどうなのか。
問題は、「恵まれた」人間は、社会変革とか改良を唱えてはいけないのか。社会変革を唱える資格があるのは、「恵まれていない」人間だけなのかということだ。両親に生活費をもらいながらフリーターをしていて、「フリーターの生活は厳しい」と言っても説得力がない。両親に頼れずフリーターの生活を余儀なくされている人から、その「立ち位置」を批判されるだろう。「そうはいっても、お前は両親に面倒見てもらっているんだろう」と。そして、嫌なら独立せよとか起業でもしろとアドバイスされてしまう。あるいは、大学教授が、非常勤講師の待遇問題について論じると、「じゃあ、まずはお前が給料を半分にせよ」とか「教授をやめて、非常勤になれ」とか批判される。「恵まれた」人間と「恵まれていない」人間の、ある意味内部対立が、社会改良にとっては大きな障害となる。
人がどういう立場であれ、社会的な問題があれば、「恵まれている」層も「恵まれていない」層も共闘していくのが筋なのだろうけれど(それが多様性を認めるということではないか)、最近は特にカルスタの影響からか、発言の「立ち位置」が問われる。そして、「立ち位置」によって、発言の真偽が判断されてしまう。そして、不思議なことに常に「現実」に近いと言われるのは、「恵まれていない」人間の言葉なのである。逆に言えば、「恵まれている」階層の人間の言葉は、現実から離反していると批判されてしまうのだ。こうした言説構造があるように、わたしには思える(全く実証はしていないけれど)。「立ち位置」という格差が、言説の優劣を決めている。
これは遠く振り返れば、知識人とプロレタリアの対立という、うんざりするような言説なのだが、では果たしてプロレタリアは真の「現実」を語っていると信じられる根拠は何なのだろうか。

*1:とりあえず、この文章では何をもって「恵まれている」と言うのかあいまいにしてある。まだ私自身、それをどう規定したらよいのかわからない。