知識人はつらい
◆小谷野敦『すばらしき愚民社会』新潮社
◆フロイト『モーセと一神教』ちくま学芸文庫
ここで批判の的になる「愚民」とは、「大衆」ではなく、大学教授や評論家、はたまた大学院生にいたる知的エリート層のことだ。つまり、この本は大衆批判がテーマなのではなく、大学や論壇を中心にした知識人批判となっている。なので、私自身もまだ何の業績もない大学院生ではあるけれど、研究者のはしくれとして、かなり耳の痛い話ではあるのだ。
私が今回一番興味を引いた箇所は次の文章。
斎藤がときおり持ち出す「社会科学の成果」なるものは、しかし、政治的言説でしかない。数年前、上野千鶴子編『構築主義とは何か』(勁草書房)が話題になったが、いったいなぜ今さら構築主義か、と思ったものだ。これこそポストモダン・フェミニズムの書であって、世界は言説によって構築されており、すべての言説は政治的である、と主張する。しかしこのような立場は、科学ではなく「信仰」を生み出すだけだ。彼らは、科学的中立性というものを認めない。上野は何度か、「ただ一つの真実が存在する」という考え方を批判しているが、たとえば芥川龍之介の『藪の中』のように、事件に関わった人それぞれの言い分が違ったとしても、そこで起こったことはただ一つでしかありえない。もし同じ事件に対する関係者の知覚に相違があるとしても、それは「真実が複数」あるのではない。(p.146)
以前から、こうした「構築主義」という考え方が気になっていて、特に社会学を専攻する院生などは、たいていこんな風に「〜は言説によってつくられたものにすぎない」とか言って批判をしているのを目にしていた。私は、あまり深く考えずに、たしかに世界には「絶対」とは「本質」などはなくて、すべては作られたものだ、と言えば良いのかなあと安易に考えていた。だから、もちろん「ただ一つの真実が存在する」という考え方を批判的に捉えてきたのだが。また、これとは正反対のような考え方に出逢ってとまどってしまう。こういう文章を読むと、やっぱり社会学を専攻している人は、批判するのだろうか?その批判の仕方を見てみたい。
真実が複数あるのではなくて、ある一つの真実なり、出来事なりに対しては解釈が無数にある、ということなのかなあと私は考えていたのだけど、構築主義とはそういうことではないのかなあ。構築主義についての本を読んでいないので、構築主義がどんなものかがいまいち分からないのだけど。
『モーセと一神教』は、面白い本だった。精神分析を使って歴史を考察してみるということだろうか。フロイトが自分の理論を使って、強引に一神教が成立する物語を作ってみた、という感じ。
それにしても、この論はすさまじいものがある。びっくり仰天とはこのことなのだ!
そもそも、この論の出発点はモーセがエジプト人だった、ということから始まるのだ。この出発点も驚いてしまうのではあるが。そして、結論はこういうことだ。
神への特別に緊密な関係に基づいて、ユダヤ人は、神の偉大さを分有するに至った。そして、ユダヤ人を選び出しエジプトから解放した神の背後にモーセという人物が立っており、この人物が委託を受けたと称してこれらの仕事を成し遂げた事実をわれわれは知っているのだから、ユダヤ人を創造したのはモーセというひとりの男であった、と敢えて言ってもよかろうと思う。ユダヤ民族は、その強靱な生命力を、また同時に、昔から身に受けいまも身に受け続けている周囲の敵愾心のほとんどすべてを、モーセという男から受けとったのだ。(p.179)
モーセという一人の男がユダヤ人を創ったというのだから、すごい話ではないか。ユダヤ人の運命は、すべてこのモーセが原因だったのだ!
このフロイトの大胆な説が、本書の読みどころとなっているわけなのだ。
ところで、フロイトの本を読んでいたら、すが秀実を思い出してしまった。すが秀実の批評って、やたら「父殺し」が出てくるので。すが秀実の批評は、ようするに日本近代文学を精神分析にかける、ということなのだろうか。そういう意味では、すが秀実の批評は、一種の「物語」なのかもしれない(読むと面白いのは確かなんだけど…、しかしその面白さとは実は「物語」としての面白さだったのかも?)。