対抗戦術はあるのか

内田樹の日記に、今度出る『街場のアメリカ論』について書かれてあった。しかし、このエントリーの内容は、狡猾というかなんていうか、本人が言うとおり腹が立つのだけど、腹を立てることが内田樹の手の内にあるというので、二重に腹が立ち不愉快な思いをする。
あらかじめ批判を封じ込めてしまう、あらゆる言説を相対化(「絶対」などないのだから)してしまう戦術など、ポストモダニストの遣り口そのものだ。こういう梯子外しに苛立ち、立ち位置争いのメタゲームへの批判があると思うが、内田樹の今回のブログを読んで、いかに梯子外しが保身のための狡猾な戦術であるかがよく分かった。メタゲームが批判されるのも、もっともだと思う。
率直に言えば、内田樹の言説は悪質だと思う。悪質と書くと人格攻撃しているみたいで誤解を生んでしまうが、人格攻撃は私の意図するところではない。言説の悪質さ狡猾さが問題なのだ。そして、言説が悪質であることが、人気があるために見えなくなっていることも問題なのだ。
結局、内田樹という人物は80年代に流行したものを、周回遅れで反復しているのだろう。遅れてきたポストモダニスト。遅れて出てきたために、80年代を知らない(か故意に記憶を消している)人々に、かえって「新鮮」な論客であると見なされてしまった。その勘違いによって、人気が出てしまったのだと思う。
私は、これを「内田バブル」と呼びたい。私はさっさとこの「内田バブル」が崩壊してしまえばいいと思うのだが、どんな本でもそこそこ売れてしまう現状では、人文系の編集者はしばらく内田樹を手放さないだろう。その間に、どうしようもない駄本が作られていくのかもしれない…。ああ悪循環。
内田本人が言うように、メタゲームをやめるには「無視する」ことしかない。
しかし、私の考えでは「無視する」のは内田樹に敗北宣言したようで気持が悪い。「無視」も批判の一つだと思うし、商品が売れなければ、たしかに「内田バブル」もはじけてしまうだろう。だからといって、こちらは相手が自然と崩壊するのをただ待つだけしかない、というのもやはり寂しい。
一つ考えたのは、「褒め殺し」が一番有効な批判になるのかなということだ。メタに立った途端に足元を掬われるのだから、徹底してメタに立つことを私は避けねばならない。となると、ベタに行くしかないわけで、内田樹の思想をベタに受けとるしか残された道はないだろう。文字通りに受けとり、それを忠実に反復していくこと。そして、擦り切らしてしまえばよいのだろう。それしか「内田バブル」に対抗する手段はないのかもしれない。
そんなことを考えていたのだが、この方法も適切なものではなかった。内田の言うことをベタに受けとって、内側から崩してやるとしても、そのために本を買ってしまっては、売り上げに貢献してしまう。そうして「内田バブル」を強化してしまうだろう*1
内田のエントリーに書いてあるように「批判」すらも、内田の言説内に取り込まれていってしまう。褒めるにしろ、批判するにしろ、内田の本に「反応」してしまうことがすでに罠なのだ。ここに内田の巧妙な罠が仕掛けられている。私は、この戦術は悪質だと思う。こうなると、やはり、内田本人の言うとおり、存在を「無視する」ことしか方法が残されていない。しかし私には、「無視する」以外に何もできないということが非常に腹立たしい。たとえ「無視する」ことがクールで高等な批判だとしても、この腹立たしさを表現できないということが、私にとっては内田樹に敗北したことを意味するようで悔しいのだ。
本当に「無視する」という方法以外に、「内田樹」を効果的に批判する方法はないのだろうか。

*1:まあ、本の売り上げの問題は、買わずに借りて読めば良いのかも知れない。