それでも残るもの

自分で書いた文章を自分で回答できないような問題を作って・・・ということを書いて、入試問題がいかに愚劣であるかという結論に導く人が時々いるけれど、これは大層な考え違いである。
書いたときの私と読んでいる私が「別人」であるのだから、何が書いてあるのかよくわからなくなって当然なのである。
というか、何年も前に書いた文章を読み返して、一語一句の意味がすらすらわかるようでは、その何年間のあいだに夫子ご自身に何の人間的変化もなかったことになるではないか。
むしろそのことを恥じるべきであろう。

これは、内田樹氏のブログからの引用であるが、氏はたびたびこれと同じことを書いている。つまり、「書いているときの私」と「読んでいる私」は「別人」であるという説だ。一見すると「なるほど」と思う。だが、私はなんとなく腑に落ちない。というのも、ここには、言説とパフォーマンスのあいだにずれがあるからである。
内田氏は「何年も前に書いた文章を読み返して、一語一句の意味がすらすらわかるようでは、その何年間のあいだに夫子ご自身に何の人間的変化もなかったことになるではないか」といい、これは恥じることだとした。人間は常に成長すべきといった道徳主義、あるいは絶えず変化する「私」を礼讃するような非本質主義的立場からすれば、非常に感銘をうける言葉である。だが、注意して読むと、内田氏のブログを読む限り、この種の言説を変化なく保ちつづけているのだ。以前に書いた文章が一語一句わかるようでは何の変化もないということではないかと主張する人が、同じ言葉を何度も反復しているという奇妙さ。同じ主張を何度も言うのは、まさに「人間的変化」がないということになるのではないだろうか。これはたしかに些末でいささか嫌味な批判かもしれないが、この言説とパフォーマンスのずれを内田氏はどう考えているのだろうか。
要するに、内田氏において、「主体は絶えず変化をする」と述べる「主体」は、まったく揺らぎもせず、変化しないのだ。ここに「主体」のやっかいな問題があると思う。このやっかいな「主体」は、最近なら、北田氏のロマン主義アイロニーの問題と関わると思う。内田氏は、「主体」は変化すると考えているが、そのように考えている当の「主体」は強固に、少しも身じろぎもせず屹立としている。この奇妙さに驚くとともに、敏感でなければならないと思う。私には、まだこのやっかいな「主体」をどう扱っていいのかわからない。