G.C.スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』

◆G.C.スピヴァク(上村忠男訳)『サバルタンは語ることができるか』みすず書房、1998年11月
この本は、スピヴァクの本のなかでもよく読まれている有名な本だけあって、たしかに興味深い議論がなされている。『ある学問の死』は凡庸な本だと思ったが、この本を読むとやはりスピヴァクの批評は重要なものであることがわかる。
内容は、冒頭に簡単にまとめられているので、それを引用しておこう。

この論文では、ことがらの性質からして必然的に迂回路をとって、まずは現在西洋において主体を問題化しようとしてなされているさまざまな努力についての一つの批判から始め、つぎに第三世界の主体が西洋の言説のなかでどのように表象されているかという問いへと進んでいくことになる。(…)そして最後には、西洋の諸言説とサバルタンの女性について(あるいは代わって)語ることの可能性との関係について、従来のものに代わってひとつの新たな分析を提供することになるだろう。(p.2)

はじめに「主体」を批判する際に生じる問題を、フーコードゥルーズの対談を批判的に検討される。二人は、第一に権力/欲望/利害のネットワークは異種混交的なもので、それらをひとつの首尾一貫したものに還元できないこと、第二に知識人は社会の他者の言説を明るみに出し、知るように努めるべきだと主張した。しかし、スピヴァクは「二人とも、イデオロギーの問題およびかれら自身が知的ならびに経済的な生産活動の歴史のなかに巻きこまれているということ」を無視しているという。主権的な主体が問題になっているのに、二人の対談は「二つの一枚岩的で匿名の革命化しつつある主体」が前提にされている。その二つとは「あるマオイスト」と「労働者たちの闘争」。つまり「アジア」(あるいは「アフリカ」)と「労働者」を二人は一枚岩的に透明化した存在としている!とスピヴァクは批判している。
もう一つの批判の知識人の役割について。結局、「囚人、兵士、生徒たちの政治的アピールの保証人である具体的経験が明るみに出されるのは、あくまでもエピステーメーの診断者たる知識人の具体的経験を通じて」であることに気が付いていない。「representation」の二つの意味、すなわち「代弁/代表」の意味と「再現/表象」の意味が、ごっちゃになって使われていることが問題であるとスピヴァクは批判する。以下、マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール一八日』を引いて、スピヴァクは「vertreten」(代弁/代表)と「darstellen」(再現/表象)の分析をする。マルクス脱構築的に読解するこの部分が、本書の有名な箇所であるらしい。
スピヴァクは、デリダの訳者だけあって、デリダ脱構築に可能性の中心を見出している人なのだ。なぜ、デリダか?それは、デリダが「自民族中心主義的な主体があるひとつの他者を選択的に定義することで自己を確立してしまうのを避けるのはどうすればよいか」という問題に敏感だったからだ。スピヴァクは、デリダが「他者(たち)に自分で語らせる」ことを求めず、「まったき他者」(自己を確立するための他者とは対立する他者)への「呼びかけ」を通じて、「わたしたちのなかの他者の声である内なる声にうわ言をいわせる」ことに注目している。
知識人の立ち位置というか、どのような場所から知識人が他者を語っているのか、おそらくそんなことが問題化されているのだろうなあと思う。表象批判がなされたのも、知識人が他者を語ろうとするとき、自分の立っている位置を隠蔽してしまうからだ。自分が何者であるかを隠しながら、「他者」の「経験」を語ってしまう。そんな「同化」の暴力を批判した、と思う。(自分の解釈に自信なし。きっと誤読・誤解の可能性が強い。)

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

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