村上春樹に対する憎しみと愛情

内田樹氏が、ブログで先の村上春樹による安原顯批判に触れている*1安原顯村上春樹(あるいは文学)に対する愛憎について書かれてあり、興味深い内容であった。この文章のなかで、私が引っかかったのは、次の箇所である。

死を覚悟した批評家が最後にした仕事が一人の作家の文学性そのものの否定であったという点に私は壮絶さに近いものを感じる。
どうして村上春樹はある種の批評家たちからこれほど深い憎しみを向けられるのか?
この日記にも何度も記したトピックだが、私にはいまだにその理由がわからない
けれどもこの憎しみが「日本の文学」のある種の生理現象であるということまではわかる。
ここに日本文学の深層に至る深い斜坑が走っていることが私には直感できる。
けれども、日本の批評家たちは「村上春樹に対する集合的憎悪」という特異点から日本文学の深層に切り入る仕事に取り組む意欲はなさそうである。

私は以前にも書いたが、村上春樹がどちらかといえば苦手な作家の一人だ。しかし、嫌いというほどでもない。私のなかでは、村上春樹は良くも悪くもない作家である。この引用箇所で、内田氏が「ある種の批評家たちからこれほど深い憎しみを向けられるのか?」と問題にしているところが気になる。私は、ここを読んで逆に、村上春樹が「ある種の批評家(現代作家)たちからこれほど深い愛情を向けられるのか?」という疑問が浮かんでしまった。私には、ある種の人たちの村上春樹に対する愛情がいまだによく分からないのだ。そういう意味では、たしかに内田氏の言う通り、ここには「日本文学の深層に至る深い斜坑」があるのかもしれない。どうも村上春樹という作家には、愛−憎の両極端な評価がつきまとうようである。好きな人は、その文体から物語まで模倣してしまう人がいるが、その一方で散々罵倒する人もいる。まあ、安原顯の場合、その愛−憎は表裏一体の関係にあったのかもしれないが。
それはともかく、内田氏が最後に指摘しているように、「村上春樹」の受容のされ方、あるいは語られ方には、たしかに注目しなければいけないのかもしれない。

*1:2006年3月12日「村上春樹恐怖症」