広田照幸『教育言説の歴史社会学』

広田照幸『教育言説の歴史社会学名古屋大学出版会、2001年1月
私はいわゆる《言説分析》という研究方法が気になっている。《言説分析》の長所と短所が知りたいのだが、どちらかといえば《言説分析》の短所のほうが気になる。《言説分析》の限界は何か。
本書は、教育学の分野における《言説分析》。たとえば「教育的」という言説が、どのように誕生し、それがどのように使われていくのかを丹念に追っている。<教育的なるもの>の系譜を記述した第一部は、本書の中でも特に面白い。
後半部では、子供研究における陥穽が指摘されている。ここでは、安易な「物語」や「常識」に乗っ取ったマスコミや評論家の「説明」が厳しく批判されている。「戦後の平等教育が子供をダメにした」とか「親のものわかりのよさが子供をダメにした」などと、ちゃんとした裏付けがない「説明」が氾濫していると。こういう「説明」は、「子供への影響を因果関係レベルで実証しているわけではなく、むしろ特定の意図やイデオロギーを下敷きにした政治的な議論である」(p.352)と批判される。したがって、研究者は「「話としてはわかりやすいが、本当かどうかあやしい」言説を実証レベルで吟味し、否定すべきものをきちんと否定していくべき」だという言葉は、まったくその通りだと思う。
著者の《教育学》に対する批判として、「教育」が政治や経済と切り離された独立した領域として見なされ研究されてきたことが挙げられる。構築主義の限界として、著者は「問題やカテゴリーの構築の「過程」を説明するものではあっても、当のそれが構築されていった「原因」を説明するうえでは決定的に弱い」(p.354)ということを指摘している。また、言説の変容をたどる研究では、言説以外の要因を分析に組み込みにくいので、「研究者が設定した研究対象の中に「原因」を探す」といった事態が起きやすいという。(例:相互作用場面を研究すると、「相互作用する諸主体によって問題やカテゴリーが(創発的に)構築されていった」という説明。ニュースの報道を研究対象にすると「マスメディアが<子供の状況>を定義し<問題>を構築していった」という説明など。)
このような限界を越えるために、著者は教育をマクロな視点から考察するべきだと主張している。言説の変容を辿るだけではなく、言説を社会編成の変化と組み合わせる分析が必要なのだ。
「教育」は、「政治」や「経済」と無関係なのではない。「教育」の自立性は、「教育学が学問として自立するためのレトリックであったし、教育現場が政治的な介入を排除したり、社会的な威信を調達するためのレトリックであった。」(p.385)教育学に関する言説は、こうしたものから脱して、社会科学の他の分野と術語や理論を共有しながら、あらたに編成し直す必要があるとのことだ。
私は、教育学に関してはまったく無知であるが、《言説分析》に関して非常に考えさせられる一冊だった。

教育言説の歴史社会学

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