「解体」なのか「補強」であるかの大きな違い

多木浩二『雑学者の夢』岩波書店
やはり面白い本だった。非常に限定された形ではあるが、多木氏のこれまでの読書経験が語られており、氏の思想形成の一端を垣間見られたというのは、非常にありがたいことだ。
言語や記号への関心から語り起こされ、そこではロラン・バルトソシュールバンヴェニストらの思想を論じる。そしてこれらの言語論とは一風変わったところにあるベンヤミンの言語論が紹介されて、第一部が終る。
第二部では、そのベンヤミンの思想が中心となる。ベンヤミンからは歴史に対する関心が述べられる。『パサージュ論』の読解など、興味深い。最後は、フーコーの印象が述べられている。
この前の日記(id:merubook:20040514#p2)で資料の扱い方について書いたが、それと関連しそうな箇所があったので、ついでにメモしておく。

私ははじめてフーコーを読んだときから、ある種の羨望を感じる一方でどうしてこんなにフーコーの言説が新鮮なのかといつも考えてきた。なにが私を惹き付けるのか。それはさきに引用したような監獄なり狂気なりが、既存の知を解体させるようにして書き進められるプロセスのなかで出現してくるからであった。(p.159)

そうだ、これだ!と、この箇所を読んだとき思った。フーコーの本では、「既存の知を解体させる」中で大量に資料が扱われるのだ。決して既存の知を補強するなり、たんに跡づける意味で資料を用いているのではなかった。大量に資料を読まされて、それでも面白い論文か、それとも退屈な論文なのか、その違いはここにあるのだろう。