『「かわいい」論』を擁護する

文學界』2006年3月号に、仲俣暁生四方田犬彦『「かわいい」論』の書評を書いている。仲俣は厳しい調子で、『「かわいい」論』を批判していた。曰く、「議論の筋道には大いに欠落がある」「(引用者注「かわいい」に対して)「共鳴」がいちどでもあったのかどうかさえ、疑わしく感じられる」「結局、本書では「かわいい」の概念規定をめぐっての手際のいい論点整理しか披露されない」等々。こうした仲俣の批判のなかには同意できるものもあるが、全体を通じてこの書評には疑問を感じざるを得ない。つまり、本当に仲俣はこの『「かわいい」論』を読んだのだろうかと。
この『文學界』3月号には、四方田も評論を書いているので、もしかしたら、仲俣の書評を四方田が読むかもしれない。その際には、四方田自身による反論が聞きたいものである。しかし、四方田ぐらいになると、仲俣のような評論家は相手にしない可能性が強い。
だからというわけではないが、私はこの前『「かわいい」論』を読んで、肯定的な感想を書いたことでもあるし、ここはあえて四方田擁護の立場から、この書評の感想を述べてみたいと思う。
仲俣は、まず「かわいい」という概念が、90年代あるいはもっと広く1970年代以後のポップカルチャーを理解する上で、「極めて有効な分析装置」であったとし、それゆえに多くの論者が「かわいい」に着目してきたのだと述べる。そして、それらの論が指摘したのは、「いま私たちの世界をとりまいている「かわいい」ものの氾濫は、ある時代精神を担ったものであるということだった」と確認したところで、四方田の『「かわいい」論』はこの「歴史主義的」な見方に修正を求めるものだとした。仲俣は、本書における四方田の方法を「超歴史的」「脱歴史的」と批判的に見ている。あくまで仲俣は、「かわいい」はある特定の時代の精神のあらわれであるという立場を取り、あとで触れることにもなるが、この書評では大塚英志に肩入れしている。
だが、ここでよく分からないのが、仲俣の言う「歴史主義」のことである。「歴史主義」は、どうやら一概にこれであると言えるものではないらしく、論者によって若干の揺れのある概念らしい。したがって、「かわいい」をある特定の時代の精神の現れだとする見方も「歴史主義」なのかもしれないが、一方で本書で四方田の見方も、「かわいい」という感性の歴史的変遷・形成を分析している点で、これも「歴史主義」的であると言えるのではないだろうか。四方田は、仲俣のように「かわいい」を特定の時代の産物だとする見方を相対化するために、「かわいい」の歴史を参照していることに注意すべきである。
次に疑問に思ったのは、次の文章である。

全体的に中立を装う記述が多いなかで、上野千鶴子の「『女が生存戦略のために、ずっと採用してきた』媚態」としての「かわいい」という言葉に象徴されるフェミニズム系の議論に対しては、やや強い調子で苛立たしげな批判がくり返される。だが、「かわいい」が「生存」のための媚態だけではない、ということが証明されたとしても、それが媚態でもありうる、という事実にかわりはない。(『文學界』p.251)

まず、本書のなかで上野千鶴子の名前が出て来るのは、ざっと確認しただけで2箇所だった。引用にある上野の論を紹介した箇所で、四方田は「上野は、人から「かわいくない女」と呼ばれていることを得意げに披露し、老後にあっても「かわいいお婆ちゃん」であることを拒否したいと、堂々と抱負を述べている」(p.17)と記しているだけで、たしかにここは若干の揶揄めいた口調ではあるが、仲俣の言うような「やや強い調子で苛立たしげな批判」とは思えないし、本書のなかで「くり返され」てもいない。また「フェミニズム系の議論」というのも何を指しているのか分からない。
また、さらに不可解なのが引用の後半部の「かわいい」が媚態であると主張している点である。これも本書を読めば分かるが、「かわいい」が女の生存のための媚態であると批判したのは上野千鶴子であって四方田ではない。四方田は本書のなかで「かわいい」が媚態ではないと主張していないし、ましてそのことを論証しようともしていない。本書は、そうではなく、人がなぜ「かわいい」に引き寄せられてしまうのかを考察していたはずである。それなのに、どうしてここで仲俣は「かわいい」が媚態であると確認しているのだろうか。
さて、仲俣が本書の最大の難点だと指摘している箇所に移ろう。仲俣の批判は以下の通り。

最大の難点は、「かわいい」という主題についての先行研究として当然参照すべき大塚英志の『彼女たちの連合赤軍』や『少女たちの「かわいい」天皇』、ササキバラ・ゴウの『<美少女>の現代史』、あるいは斉藤環の『戦闘美少女の精神分析』といった著作における議論が恣意的に迂回されていることだ。(『文學界』p.250)

たしかに、仲俣が指摘しているように、本書において四方田はあきらかに大塚英志らの論に言及することを避けている。このことは、私も疑問に思った。本書の構成は、バランスを欠いているという批判は頷ける。
さらに仲俣は、四方田が大塚の論を回避したことを不可解だとし、「連合赤軍の元幹部・永田洋子が獄中で描いた絵に「犠牲者の女性たちが一昔前の少女漫画のタッチで描かれていたというので、それを手がかりとして現代社会におけるサブカルチャーの重要性を喧伝するという論客が、いささか強引な論陣を張った」と書く以上、当然ここでは大塚氏およびその著者の固有名が引き合いに出されるべきだ」(『文學界』p.250)と批難した。そして、さらにこの四方田の要約は正確ではないとし、そこに「たんなる言い間違いにはとどまらない悪意を感じさせる」と激しい調子で書いている。
たしかに、私も四方田が大塚の名を出さずに言及するというのは、誠実さを欠いていると思う。大塚の論に不満があるのであれば、やはり本書のなかで、正面から批判すべきだったのではないか。
ここまでの仲俣の批判はよしとしよう。問題なのは、大塚の論に対する仲俣の読みである。仲俣は、大塚の一連の論をこう解釈している。

大塚英志がこの本で記述したのは、消費社会が政治や革命といった大文字の観念を掘り崩していったという端的な事実であり、その両者の裂け目に落ち込んだ若者たちの悲劇である。大塚氏が「かわいい」という美意識を擁護するのは、政治や革命が抑圧した女性たちの感性を救出するためであり、先の要約は、たんなる言い間違いにはとどまらない悪意を感じさせる。(『文學界』p.250)

もし、大塚の論が仲俣の言うとおりであれば、それこそ批判されなければならない論なのではないだろうか。「かわいい」という女性の感性を救出する身振りこそ、「かわいい」に対する男の権力性、政治性にほかならない。女性から、勝手に私の感性を代弁するなと批判されても仕方がないだろう。「かわいい」という理由からリンチするのも、救出するのも、女性を「かわいい」に追いやっているという点では同じ穴の狢なのである。このような権力性、政治性が「かわいい」にあることを、四方田は本書で主張していたのである。したがって、もし大塚の論が仲俣の言うとおり「「かわいい」という美意識を擁護するのは、政治や革命が抑圧した女性たちの感性を救出するため」なのであれば、当然それは批判されるべきであり、このように大塚の論を解釈した仲俣ももちろん自分の権力性、政治性に無自覚であると批判されるであろう。そもそも、本書をきちんと読んだのであれば、このような解釈はできないのではないだろうか。
さて、最後にもうひとつ言いたい。仲俣は、若者や女性、老人、子どもたちに向けている「かわいい」の政治力学の分析のまなざしが、四方田自身を含めた中高年男性には向けられていないと批判している。このことが問題だとし、「著者近影をプリクラで合成したなどとカマトト風に「かわいいオジサン」を演ずる身振りのなかにこそ、じつは「かわいい」をめぐる、もっとも強固な政治力学が働いているはずなのだが」(『文學界』p.251-252)と書いて締めていた。しかし、この思わせぶりな記述からは、では実際具体的にどのような「政治力学」が働くのか理解できない。それはいったい何だろう?
結局、この四方田に対する仲俣の強い批判は、世代間の争いなのかなと思う。サブカルチャー論壇における世代間の主導権争いというか。要するに、仲俣は、自分より上の世代である四方田が、自分たちの世代を無視したことが許せないのだろう。そこで、自分に近い大塚を持ち出して、自分たちのほうがサブカルチャーをよりよく理解しているのだと主張したかっただけなのでは。これが、仲俣の言う「政治力学」の正体なのではないか。世代間争いが不毛であることは、四方田も述べている。あえて四方田の振る舞いを好意的に解釈すれば、サブカルチャー論壇をめぐる世代間争いには興味がないので、四方田は大塚英志に対する直接的言及を避けたのかもしれない。
仲俣は、論壇政治をことある事に批判しているが、自分のやっていることはそれと変わりがない。