四方田犬彦『星とともに走る』

四方田犬彦『星とともに走る 日誌1979-1997』七月堂、1999年2月
「ガロ」に連載されたものと、79年のソウル、87、88年のニューヨーク滞在時のノートよって本書は構成されている。したがって、かなりの量の文章が詰め込まれている。文章の量だけでも驚くべき本なのだが、本書は内容も驚くべきものとなっている。日誌には、四方田犬彦の観劇記や旅行記、はたまた長期の外国滞在記や人物交流について書かれている。評論家であるので、映画や演劇を非常にたくさん見に行っているのは当然だが、外国旅行の回数もかなりのものだし、人間関係も世界中に知り合いがいてすごい。四方田の驚くべき生活が、ここに記されている!
あとがきで四方田は、79年の韓国滞在が批評の原点となっているという。そして帰国後の20年間で60冊もの本を出してきた。そんなにたくさん本を書いていたのかと、ここでもその量に驚く。また、つづけてこう述べている。「本書を手にとられる方は、その間にわたしの精神が何に向かい、何に囚われていたかを、ただちに理解してくださるだろう。」(p.373)
たしかに、この言葉通り、この日誌を読み続けていると、四方田の思考の軌跡をたどることができそうだ。ここに書かれている文章は、のちに別の本や論文などで見出すことができる。その意味でも興味深い本だ。
四方田の思考の方法を端的に述べている箇所がある。それを一つ引いておきたい。

それにしても笑止しいのは、ぼくがいつもある場所に居ながら、まったく別の場所にことを考えていることだ。昔韓国に住んでいたころは、アイルランドのことばかり考えていた。ニューヨークではインドのことを、月島では中国のことを考えていた。そしてイタリアでは壁にフェズの地図を貼り、モロッコのことばかり考えている。(p.275)

四方田は「移動」する思想家だと思うのだが、「移動」してさらに今いる場所とは異なる場所について思いめぐらせているところがアクロバチックでおもしろい。絶えざる「移動」と「ズレ」が、批評家としての四方田を支えているのだろう。これが四方田の特徴なのだ。
四方田は自分で、若き日の韓国滞在が批評の原点だと述べているが、もう一つ彼の批評の原点となっているのは、やはり70年代であり、性格には高校闘争の挫折だろう。このことは、『ハイスクール1968』を読んだときに強く感じたが、あらためて四方田にとって高校闘争が忘れられない体験となっているのだなあと感じた。たとえば、70年代について、こんなふうに書いている。

高度成長と学生反乱によって特徴づけられる六〇年代が圧倒的に華やかでハイな時代であったとすれば、七〇年代はそのツケを払わされた、陰気で憂鬱な時代だ。誰もが決着の付けかたに失敗し、世界の片隅で死んでいった。そしてこの時代にぼくはものを学ぶことを強いられたのだ。(p.280)

「政治」に挫折した少年たちが行き着く先は、サブカルチャーだった。これが北村透谷の時代なら、「文学」だったのだ。四方田らの世代の人たちが、今現在、批評の世界や論壇の中心となっているけど、この世代は特にマンガやロックなどサブカルチャーへの耽溺がつよいことが特徴だろう。そして、単にオタク的にそれらの知識を自慢するのではなく、サブカルチャーを語りつつも「政治」を語ってしまう。サブカルチャーにこそ、アクチュアルな「政治」問題が現れている!そんなことも分からないのか!ということになるだろうか?。ともかく、「政治」(=「高校」闘争の挫折)→サブカルチャーの耽溺→批評の世界へ、というのが四方田らの世代(「大学」闘争に遅れた高校生)の末路であるのは間違いない。そして、彼らは不毛なニューアカを経て、90年代に「政治」(文化の政治といえばよいのだろうか?)へと回帰していったのではないか。
本書からやや離れてしまった。話を本書に戻す。本書は、四方田の人間関係が読みどころの一つだ。いろいろな有名人が登場している。面白いエピソードが書かれてあった。1996年の正月の記述。四方田の家での新年会に東浩紀が来たという。その時の様子――。

ニーナとトシが東大の上佑クンという渾名の学生を連れてきた。なるほどそっくりだ。東浩紀というこの学生はひとりでデリダとか、ドゥルーズだとか、誰もここではわからないことを酔っ払って叫んでいる。NYではどんなパーティでもこうした場違いな人物が一人は混じっていたものだった。(p.322)

こんな時代もあったのか。

星とともに走る―日誌1979‐1997

星とともに走る―日誌1979‐1997