仲俣暁生『極西文学論』

仲俣暁生『極西文学論 Westway to the World』晶文社、2004年12月
読み始めたとき、この本は要するに「アメリカ」の西向きの運動の後に(Post「西」?ということか)生じた現代日本文学がいかなるものなのかを論じる批評なのかと予想した。つまり、一種のポストコロニアル批評なのかと。
しかし、その期待というか予想は見事にはずれた。それほど高尚な批評ではない。
現代の作家たち、ここでは舞城王太郎吉田修一阿部和重星野智幸保坂和志が取り上げられている。そして、この作家たちを論じる際、常に参照軸として呼び出されるのが「村上春樹」である。逆に見れば、取り上げられた作家たちの視点から、村上春樹を読み直したとも言える。つまり本書は、村上春樹論でもあるのだろう。
率直に言って、本書は非常に読みにくい。少なくとも私には理解しにくい文章だ。そもそも「極西」という言葉をあえて使うことの意義がはっきりしていない。

西という言葉が意味するのはたんなる地理的な配置ではない。西とは私たちの想像力が生み出す何かだ。想像力とは恐怖という感情を生む源泉であると同時に、どこかへ向かう運動を生み出す契機でもある。(p.234)

著者は、最後にこう書いている。これをどう理解したら良いのだろう?本書を読み通した後に、この文章を読んでも私には著者が言わんとすることが分からなかった。私の理解力が乏しいのが原因かもしれないが。
さて、著者は、村上春樹は一貫して「恐怖」にこだわって作品を書いてきた作家だと見ているが、しかしその「恐怖」の描き方に不満があると村上春樹を批判する(p.122)。そして、『羊をめぐる冒険』において、はじめは「羊男」のイラストを入れていなかったのに、単行本化に際に村上春樹自身によるイラストが入れられてしまったことに注目し、これは村上春樹が「真の恐怖」を描くことを断念し他のことを書くことを優先した、つまり「断念された「恐怖小説」」なのだと論じる。
観念として存在していた「羊男」に、イラストレーションという具象性を身にまとわせてしまった結果、村上春樹は「真の恐怖」を回避してしまったというわけだろう。本書では著者の言う「恐怖」というものが、一体何なのかこれまたはっきりしない。これがイマイチ分かりにくいために、著者の感性を共有しにくい。したがって、「恐怖」でもって著者が何を言いたいのかが理解できない。ただ、「自分が「恐怖」だと感じる表現を村上春樹が描いていない⇒ダメ!」と言っているにすぎないのではないか。
もう少し粘って、著者の議論について行ってみる。そうすると、こういう箇所に目が止まる。『羊をめぐる冒険』において「羊男」がはじめて登場するシーンが「戦慄が走るほど恐ろしかった」(p.112)と著者は言う。その理由は、「現実世界には対応物をもたない「観念」が、いきなり「羊男」という文字面によって(いわば暴力的に)表象されていたから」(p.112)だ。
つまりシニフィエを欠いたシニフィアンの浮遊に、著者は「恐怖」を感じるということだろうか?。それなのに、村上春樹シニフィエなきシニフィアンに、いわば暴力的にシニフィエ(=イラストレーション)を与えてしまった。それが著者の不満であり、また村上春樹が「恐怖」にこだわりつつも、読者に説得力を持って言葉で「恐怖」を提示できない理由ということなのだろうか。これでは、「小説の使命」を果たしていないと著者は言いたそうである。
著者は、一方で小説における「視線」を映画と対比させながら論じてもいる。著者が批判していると思われるのは、垂直に上から下に向かう視線だ。それは一方的に対象を見る、いわば権力を持った視線といえるかもしれない。一方的にまなざしを送ることは、一方的に意味を与えることにほかならない。おそらく、村上春樹批判もその流れで理解したらよいのかと思う。
つまり、こういうことだ。シニフィエなきシニフィアンが、著者にとっては「恐怖」となる。シニフィエなきシニフィアンの運動こそ著者の言う「西」への運動なのだ。「極西文学」とは、このシニフィアンの運動にこだわることである。だが、しかし村上春樹はこうしたシニフィエを欠いたシニフィアンに耐えられなかった。そこで、シニフィエシニフィアンを安易に結びつけてしまう(神戸の震災についての村上春樹の文章を著者は批判している)。これは、著者の理想とする「極西文学」ではない。村上春樹は「西」を向いていない。では、「西」を向いているのは誰なのか。これが本書の大きなテーマだと私は考える。
それにしても、はじめに述べたように本書は分かりにくい。その原因として、本書の論述の流れがかなり込み入っているからだ。「極西」だの「恐怖」だの著者自身の意味を持った用語が頻出するのだが、それに関する説明が一切ない。シニフィアンシニフィエを与えないということでは、著者は自分の論旨に忠実であり倫理的なのかもしれない。だが、そんな倫理はもちろん必要ない。用語の説明不足や構成の複雑さは、単に書き手の未熟さを露呈しているだけだ。
ロックの話があり、アメリカ文学の話があり、戦争の話が入り、村上春樹を論じていたと思ったら、別の現代作家を取り上げてきたり。ロックの話と、日本の現代作家がどう結びつくのか。アメリカの西向きの運動を述べた後、唐突に現代作家を論じ始めたりする。その繋がりや関係がはっきりしない。悪く言えば、思いついたことをそのまま垂れ流している印象を受ける。なので、まるで連想ゲームのように、作品を取り上げてはそれを論じている。
著者は一方的な視線を批判しているが、そのことを自ら裏切っている。本書は著者の一方的な意味づけを読者に押しつけているのだから。その意味で本書は、著者仲俣暁生のモノローグ的作品と言っても良い。読者のことはお構いなく、どんどん著者がスピードを上げて語り続けている。私はそれに追いつけなかったし、追いつこうとも思わなかった。なぜなら、語りに魅力がないからだ。
この本は、『極西文学論』とタイトルには「論」がついているが、評論ではないのかもしれない。これは「詩」なのだ。私は評論だと思って読んでいたが、これは「どこでもない場所」をモチーフにした「詩」なのだと思う。そう考えると、すこしすっきりした。
以下、本書を読んで思いついた(or妄想したこと)ことをいくつか書き留めておく。
まず、一つ考えたのは、そもそも日本の近代化とは「西」への運動ではなかったか。なにしろ「西洋化」とか「西欧化」という言葉が、「近代化」という言葉と同じように使われているではないか。とするなら、今現在日本は「極東」ではなく「極西」だと主張するということは、どういう意味を持つのか。
曲解するとこうだろうか。すなわち、今、日本は「西」の果てまでやってきた。つまり日本は最先端を意味しており、しかも近代を極めた頂点にいる。しかし、ここでとどまらずに、もっと先の「西」へ進めということか。これだと、少々自信がありすぎの「日本」じゃないだろうか。
また「極西」と言う場合、どこから見て「西」にあるということなのか。本書を読む限り、それは「アメリカ」から見て日本が「西」にあると言っているように思えた。つまり「アメリカ」が基準点となっているのだ。穿った見方をすると、日本は「アメリカ」の支配下にあるという端的な事実をはっきりと認めようではないか、いや認めるべきだということが言いたいのか。そして我々は「アメリカ」の最も「西」にいるということを意識し、そこからもう一度文学を始めようではないか、ということを言っているのだろうか。それとも単にグローバリゼーション万歳、アメリカの一極支配万歳ということなのだろうかか?。この読み取りは、単なる私の誤読や勘違いなのだろうか。

極西文学論―West way to the world

極西文学論―West way to the world