星野智幸『嫐嬲』

星野智幸『嫐嬲』河出書房新社、1999年10月
本書には、表題作の「嫐嬲」と「裏切り日記」、そして「溶けた月のためのミロンガ」の三作品が収録されている。
「裏切り日記」は、文藝賞受賞後の第一作とのこと。『文藝』星野智幸特集号にある著者解題を参照すると、本作の素材は96年に起きたペルー日本大使公邸人質事件と翌年の神戸の事件と栃木の黒磯でおきた中学生による教師殺害事件だそうだ。星野は、「いずれも「テロル」の要素を持っているが、社会に向かって暴発する憤怒の根源があまりに違うことに私はめまいを感じ、同じ地球の上でそれらが同居しているのはなぜか」について考えようとしたと述べている。その際、鍵を握るのは「言葉」であるという。
「裏切り日記」における「言葉」の分析は、同じ『文藝』所収の小平麻衣子「血は水よりも濃い――「裏切り日記」という始まり」で行なわれている。ここで小平は、「小説の快楽と同根でもある想像力が、人を殺めもする事態を前にした小説家が、言葉に何ができるのかを問うたもの」とし、「ユキノリ」にとって「言葉」が何を意味するのかを論じる。その結果、「言葉は、世界を覆い隠す穴としてではなく、そこから互いの血が混じり合う傷口を開く」(p.146)と読み解く。「言葉」の複数性、不純性は星野作品を特徴づける。前田塁は、星野の作風のひとつに「小説というジャンルが不可避に持つ、単声=単性性への疑義」(p.142)があることを指摘している。
「単声=単性性を拒絶して語ること」(p.143)は、「溶けた月のためのミロンガ」でも実践されていた。そこでは、「ぼく」と「わたし」が互いに語りかけるように、入れ替わり立ち替わり語り続けていく。そして、最後に「ぼく」と「わたし」は「自分一人」になる。「自分」のなかの「ぼく」と「わたし」というアイデンティティの複数性を全面的に展開しているのである。
「嫐嬲」は、セクシュアリティの複数性を追求した作品だ。星野は次のように解説している。

男にも女にも他のセクシュアル・マイノリティにもアイデンティファイできない者たち(実は誰にでもそういう部分はあると私は思っている)が、いかにその宙づり状態のままで生きるか。その場合、社会のほうを変えようとすると尖鋭化するしかないのか、個人の力量で乗り切れば社会構造を変える必要はないのか。(p.8)

星野作品は、さまざまテーマを語りながらも、デビュー作から一貫して「複数であること」「混じり合うこと」を追求しているといえそうだ。

嫐嬲(なぶりあい)

嫐嬲(なぶりあい)