『群像』2005年10月号「評論特集11人評論競作」に関するメモ
渡邉大輔「死児とメディア化――赤坂真理論」…△or×
大山鳴動して鼠一匹といった感じがする評論。現代思想に詳しそう。特にメディア論を参照して、赤坂真理を読み解くということをしているのだが、本当に現代思想なんかを持ち出さないと赤坂真理の小説は読み解けないのか、という疑問を感じる。別段、たいした作品でもないのに、大げさな分析装置をつかって分析して、さも高い価値があるように論じているのではないか。渡邉氏自身、この自分が書いた評論の内容を本気で信じているのだろうか。ネタとして書いているのではないかと勘ぐってしまう。
伊藤氏貴「淫靡な戦略――阿部和重の<核>なき闘い――阿部和重論」…△
阿部和重は「<方法>的な作家」(p.27)であることを確認して、阿部が闘っているものは何かを論じる。阿部の敵は、「<個性>であり<私>であり<物語>」(p.28)だ。そこから、阿部作品といえる特徴<模倣>という主題、「分裂」という主題が分析される。そして、阿部が「物語性=一本の筋の否定」をしていることが理解される。無難な解釈だと思う。
管聡子「聖なる愚者は<父の言葉>を超えられるか――鹿島田真希論」…×
フェミニズム系の評論。『六〇〇〇度の愛』は、「私たちに内在する「暴力」に対する、一つの回答でもあった。父の言葉による世界の始まりを脱構築し、楽園を出、そして「暴力」と対峙した。」(p.60)とのこと。
福嶋亮大「コンラッドの末裔たち1900/2000――桜坂洋、平山瑞穂、山崎ナオコーラ論」…○or×
今回の評論のなかでは、一番の力作だと思う。豊富な知識に驚かされる。批評史における自然主義を再検討する試みは、なかなか面白いものだと思う。他者の不在とは、要するにメタポジションに立つことの不可能性という認識のことなのだろう。メタポジションに立てない、そもそもメタポジションなど存在しない状況のなかで、それでも批評は可能であるのかを福嶋氏は問題にしていると思われる。これはこれで、かなり興味深い問いである。これをコンラッドの読解から引き出したのも良かったと思う。ただ、桜坂洋、平山瑞穂、山崎ナオコーラ論のほうは、無理矢理コンラッドと比較した感じがする。あとから付け足したのだろうなという印象が残る。
陣野俊史「更地と希望――佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』を読む――佐藤友哉論」…△
佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』を「家族小説」と読む試み。佐藤友哉は、家族のなかで両親を必要としない子どもたちの共同体を描きとっていると指摘する。佐藤的子ども共同体の特徴は、1)兄妹だからこそ出来ている濃密な共同体であり、それは2)一過性の性質を帯び、3)そこでの「生活」がないことだと言う。
佐藤友哉の描く子ども共同体と対照的なのが、舞城王太郎で、舞城が描くのは「連続性のなかの共同体」であった。舞城と佐藤の対応関係(雑誌に発表形態など)を示唆しつつ、舞城の描く「連続性のなかの共同体」が「一過性の共同体」を蹂躙する風景は、佐藤への批判であろうとする。(p.104)
佐藤康智「『水晶内制度』伝――笙野頼子論」…×
『水晶内制度』の筋をただ追っかけただけ。
田中和生「夜行列車のように――多和田葉子論」…△or×
多和田葉子の作品に頻出する「夜行列車」を手掛かりに、多和田葉子の世界を読み解く。「夜行列車」に注目したことは良い着眼点だと思った。
多和田葉子の文学が夜行列車的だというのは、こうしてトンネルのような場所から出ることなく、日本語という出口にもドイツ語という出口にも向かわず、それぞれの言語体系から見て穴が空いたりはみ出したりした言葉に溺れて、そのトンネルにいつづけたいと願う感覚につらぬかれているからだ。(p.136)
池田雄一「中原昌也と孤独な時代の叙事詩――中原昌也論」…△
中原昌也の作品は「隠喩」ではなく、「換喩的」表現なのだという。しかし、通常換喩的表現が、基本的に記述すべき対象となる「世界」が、時間的にも空間的にも存在していることを前提にしているのに対し、中原の換喩的表現は、それとは違う。したがって、中原の小説を要約しようとすると常に失敗してしまう。「そこに文章によって記述すべき「物語内容」が存在しない」(p.148)。つまり、中原の小説は「無頭の換喩表現」と言えるだろう。
中原の作品には、記述すべき「世界」を前提にしていない。「存在するのは集積された使用例だけ」であり、「その断片を「隣接性」の原理」で繋いでいる。それが中原昌也独自の「換喩的表現」であると分析している。
仲俣暁生「Minimum Soul, Maximum Rock'n'Roll――古川日出男論」…××
古川日出男論というより、この評論は古川日出男の小説を読む「ぼく」について語った文章だと読むのがふさわしいだろう。自分語り(虚構の「ぼく」かもしれない)や気取った文章表現に不快感を覚える。
二〇〇四年、ようやく『サウンドトラック』と『ボディ・アンド・ソウル』の二作を書店で発見する。すぐにタイトルに惹かれた。一目惚れだ。本当にこのタイトル通りの中身が書かれた小説ならどんなにいいだろう!(p.161)
この一節は、小林秀雄が語るランボーの詩集との出会いでも真似したのだろうか?。批評の対象といかに運命的な出会いをしたのかを語るのは、批評家にありがちな手段(口実)だろう。劣化した「小林秀雄」だなと言いたくなる。
しかし、あえて深読みをしてみると、次のような推測ができる。もしかするとこの評論は、評論とフィクションの境界を壊そうとする試みだったのかもしれないのだ。それゆえに、評論でもなくフィクションでもない不思議な文章ができあがったのではないか。
そうだとしても、この評論(?)の稚拙さの印象はぬぐえない。
そんなクソみたいなジャンルの壁を現実に破壊できるのは、「透明な語り」の「かったるさ」をオリジナルなアクションによって突き抜けてゆける、スピーディーでパワフルでソウルフルな動詞的存在としての本物のwriterだけだろう。(p.156)
素人がblogで書く感想のような言葉に驚いた。これほど空虚な評言は、ほかにないだろう。これは、商業雑誌にプロの評論家が書いた文章なのだ。
もし君の魂がすっかり磨り減ってしまって、まるで心の真ん中にポコリと穴があいているような状態だとしても、その穴ボコを中心に自分をぐるぐるまわしてみたら、なにか新しいアクションが生れるかもしれないよ。例えばダンス、例えば……。(p.169)
とても評論とは思えない恥ずかしい文章だと思う。仲俣氏は40歳を超えた人なのに、こんな幼い文章を書いていて恥ずかしくないのだろうか。文章全体に流れるロックンロール!、イエイ!という雰囲気に引いてしまう。