渡部直己『不敬文学論序説』

渡部直己『不敬文学論序説』ちくま学芸文庫、2006年2月
1999年に出た単行本に、あらたに付論「今日の天皇小説」を入れたもの。付論では、島田雅彦星野智幸阿部和重が論じられている。
天皇制」を描いた小説はあっても、近現代の天皇(今上天皇)を描いた/描こうとした小説は少ないのではないか、これが本書のモチーフだ。この問題提起はなかなか面白い。
小説とはどんなものでも描き得るのが原則にもかかわらず、こと天皇に関して言えば、「現代小説の日本語は、立憲君主国ではなく、日本共和国のなかで日々に書き継がれてあるかの観を呈している」(p.10)というわけである。この問題を、単に社会的、政治的な圧力が原因とするのではなくて、「小説」そのものが持つ性格に注目することによって論じていく。重要なのは「描写」である。ある対象を描写するには、その対象に「接近」することになる。だが、細部の描写にこだわればこだわるほど、対象全体を分断することになってしまう。本論では、接近と回避という描写の持つ二つの運動に注目している。それはまた「黙説法」といった技術とも関連するのであるが、饒舌に描写があったとしても、それは饒舌であるがゆえにかえって肝心の場所、描くべき中心を隠蔽してしまう。それが天皇の聖性を支えることになるだろう。
本論の筋とは外れてしまうのだが、第3章の冒頭につぎのような文章を見つけて、なるほどと思った。白樺派について触れたところだ。

「小春日和」とはつまり、その白樺派的な朗らかさが、「多くの青年にとつて」自我の心地よい「自由」と「解放」の感触を導き、さらには現実の国家や社会の状況をこえて、個人的なものと世界的なものとが一足飛びに結びつきうるような錯覚の蔓延した一時期の別称にほかならない。(p.98)

岸田劉生は、「国家、社会のためにつくすてふ事は自己の為につくすてふ事と全く反対の事である。只ひとり人類の為につくすてふ事のみ、自己の為に尽すてふ事と矛盾しないのである」と述べている。この言葉は、武者小路実篤高村光太郎、あるいは阿部次郎や倉田百三生田長江賀川豊彦のものでもおかしくないという。
これは、今風にいえば、セカイ系ということになるのだろうか。もしかして、白樺派セカイ系だったのか。短絡は慎まねばいけないと思うが、セカイ系という観点から白樺派あるいは大正時代の生命主義などを読み直してみると面白いかもしれない。ここには反復と差異がありそうだ。

不敬文学論序説 (ちくま学芸文庫)

不敬文学論序説 (ちくま学芸文庫)