行定勲『春の雪』

◆『春の雪』監督:行定勲/2005年/日本/151分
予想以上に良い出来だった。三島の熱烈ファンで、若尾文子のファンでもあるので、この映画は絶対に見逃せない。『春の雪』は、三島の小説のなかでも特に好きな作品なので、これがどんなふうに映画になるのかが気になった。
『春の雪』はタイトルにある「雪」の場面がとても印象的なのだが、映画でも雪の降る場面がよくできていた。ラストで、清顕が月修寺に向かう途中の階段で倒れてしまう。この時、清顕は血を吐く。それと同時に雪が降り始め、清顕の血に染まった手の平に雪が舞い落ちてくる瞬間がすばらしい。血の「赤」と雪の「白」が交わる瞬間は、いろいろなことを想像させる(どうでもいい深読みがしたくなるほどだ)。非常に象徴的なシーンだった。
それから原作にはない百人一首のモチーフを取り入れたことは、この映画にとって良かったのではないかと思う。この映画のテーマがこれによってはっきりとした。つまり、この世では結ばれなくても、あの世で二人は結ばれるであろうという彼岸の愛というテーマが、百人一首のエピソードでよく理解できる。物語のロマンチックな面が強調されて良かったなと思う。
ただひとつ悔やまれるのは、月修寺での門跡と本多の対面の場面である。本多との対面を終えた門跡が襖に隔てられた隣室にいるであろう聡子にむかって、これで良かったのだなという声をかける場面だ。この場面は、門跡が振り返るショットに対し、逆切り返しショットで襖が映るという一連のショットで構成されている。ここは、門跡のショットの後、直接襖の切り返しショットで良かったのではないかと思う。この映画では、たしか襖を写すときにややカメラをパンさせながら襖のショットになったと思う。このカメラの動きには、なんだかためらいが感じられて湿っぽい場面になってしまった。しかも、聡子の「はい」という声と泣き声が漏れ聞こえてくるので、余計に感傷的な場面になってしまう。もし、門跡のショットのあとに、襖のショットで切り返し、聡子の「はい」という声だけがして、無言のまま襖のショットを写していたならば、聡子の強い意志が表現できただろうし、「天人五衰」の最後の場面とも重なって非常に興味深いものになったかもしれない。そう考えると、ちょっとカメラが動きすぎたし、聡子の泣き声も余計だったのかなと思う。聡子は未練などないのだ。というのも、百人一首のエピソードからも分かるように、清顕とこの世ではなくあの世でもう一度会えることを確信しているからだ。聡子の泣き声はこの世への未練を感じさせてしまうので余計だったのではないかと思う。
また、映画『春の雪』の聡子は、あきらかに清顕の共犯者として描いていた。原作では、何を考えているのか分からないような謎めいた女性だったような気がする(私の思い込みか)。
その意味で「私がもし急にいなくなったら、清様、どうなさる?」という言葉は象徴的だ。
清顕が、聡子の手紙を利用して、聡子との逢い引きをつづけさせるように蓼科に迫る場面でも、聡子は(というか竹内結子)はかすかに笑みを浮かべている。この笑みによって、聡子は間違いなく清顕を愛していることがはっきりしてしまう。
こうではなくて、聡子を徹底して「謎の女」にしてしまうと、映画はどうなっただろう。つまり、聡子が本当に清顕を愛しているのかどうかすらも曖昧なままにしておくのだ。そうすると、映画『春の雪』はまた別の雰囲気を持った物語になったかもしれない。今回の映画『春の雪』は、聡子が清顕を愛しているのがはっきりと理解できるようになっている。それはそれで良いことなのだが、一方で最後まで「謎の女」という聡子も見てみたかった。
そうしたとき、聡子の「私がもし急にいなくなったら、清様、どうなさる?」という言葉が俄然意味深な言葉へと変化し、見る人によって多様な意味を持ちはじめるのではないか。
若尾文子ファンとしては、門跡姿を見ることができただけで満足だ。この映画は実は岸田今日子も素晴らしくて、ベテランの俳優が活躍している。松枝家の執事の田口トモロヲが、清顕にそっと聡子が大阪に旅立つ時刻を知らせる場面もよい。清顕が部屋を飛び出した後、廊下の片隅で小さく頷いている執事の田口トモロヲの姿が印象的。
そんなことを考えながら帰りに本屋に寄ると、三島を特集している『文藝別冊』を見つける。奥付をみると発行日がちゃんと11月25日になっているところに、この特集にかける河出書房新社の意気込みを感じたので買ってきた。四方田犬彦による小説『春の雪』の読解が非常に面白い。「ノスタルジー」と「ミニュアチュール」の二つの主題から読み解いている。