「この映画を見たい!」と思わせる文章(補足)

この間の日記*1で、私にとって蓮實重彦の批評は、「この映画を見たい!」と思わせるものなのだという主旨のことを書いた。これは私が日頃から感じていた印象論を記したにすぎないのだが、仲俣暁生氏のはてなダイアリーの「ぼくが映画を観ない理由」*2というエントリーにおいて私の印象とはまったく逆のことが書かれており、少し驚いた。
仲俣氏は、1980年代以降の日本の文芸批評の問題として、柄谷行人にせよ「蓮實重彦」にせよ、「論じられている対象の作品をいっさい読む必要がないくらいに、批評のテキスト自体がエンタテインメントとしてよくできており(そのエンタテイメント性は、論じれらるテクストが既知のものでなくても十分に機能した)、結果的に、批評を経由して作品へと向かう通路が閉ざされてしまったことじゃないか」と論じているのだ。
これは単なる主観のちがいという問題にすぎないのだろうか。仲俣氏は、あまり映画を見ないという。私はなにより映画を見ることが好きだ。そんな趣味の差が影響しているだけのことなのだろうか。
それとも批評というジャンルの構造的な問題なのだろうか。