蓮實重彦『魅せられて』

蓮實重彦『魅せられて 作家論集』河出書房新社、2005年7月
文庫などに書いてきた解説を集めた本だった。なので、各評論は比較的短いものが多いけれど、他の文芸批評の本よりも読みやすい。テクストの言葉に徹底してこだわって分析している。この分析手法は見習いたい。
取り上げられている作家を並べておこう。
第一部――樋口一葉夏目漱石芥川龍之介谷崎潤一郎
第二部――大岡昇平安岡章太郎河野多恵子
第三部――後藤明生古井由吉金井美恵子中上健次村上龍島田雅彦阿部和重
迂闊にも気が付かなかったのだが、漱石の『それから』で「一人称の「私」と二人称の「貴方」の間だけには、「愛」するという動詞が禁じられている」(p.56)という指摘は収穫だった。どういうことかと言うと、「貴方は平岡を愛してゐるんですか」とか「平岡は貴方を愛しているゐるんですか」という言い方はあるのに、「私は貴方を愛している」とは言わないのだ。「私は好いた女がある」と漱石は書く。「I love you」という言葉だけが禁じられているという。その結果――

すなわち、I love youが日本語に翻訳しがたいという漱石の自覚いらい、「私」と「貴方」との間に介在すべき「愛」の能動的他動詞性を回避しながら、その等価的表現の模索にあけくれてきた近代日本の小説は、恋愛を、快楽の対象ではなく、二人してくぐりぬけるべき試練のごときものに仕立て上げた。(p.58)

こうした状況が今日まで続いているという。これは、本当なのだろうか?。すごく気になる。これから漱石を読むときには、ちょっと気をつけてみたい。
(追記――この漱石の自覚、つまりここで蓮實が指摘した「I love you」と日本語の関係すなわち「愛」問題は、前日の日記で取り上げた仲俣による「漱石以後の「現代日本文学」における愛の不在」という指摘と対応しているのだろうか。対応しているのであれば、なおさら、「漱石以後の「現代日本文学」における愛の不在」が、「星野、舞城、古川の三人」の作家によっていかに克服されたのかが知りたくなる。)
ほかにも、中上健次の分析では、テクストに現れる「一人二人」という数字の不気味さ着目し、この数字の分析を通じて「路地」や中上文学に迫っていく。
村上龍の『ピアッシング』の分析では、この小説には製作者の村上龍と演出者の村上龍という分業があると言い、ジャンルとしての小説が反省意識を持たないように、同時に読者にもそんな意識を持たせないように、すべてをあっという間の出来事として語りつくす技術が要求され、その技術を備えているとして製作者の村上龍は演出家の村上龍を起用したのだという。ここで重要なのは「すべてをあっという間の出来事として語りつくす技術」つまり、「時間」が重要な問題になるだろう。蓮實は、『ピアッシング』の魅力はなにより時間の余裕の無さからくる「せっぱつまった直線性」(p.214)にあるというのだ。この時間の直線性はおそらく『現代小説のレッスン』において石川忠司が「エンタテイメント化」という概念で村上龍の文体を分析したことと通じている。すなわち、蓮實重彦もまた村上龍の「エンタテイメント化」を評価していたということになるだろうか。

魅せられて──作家論集

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