加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説』

加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説――映画学特別講義』筑摩書房、2004年9月
非常に面白い映画分析。映画を見る(聴く)とは、どういうことなのか。映画学という知を総動員して、『ブレードランナー』を読み解く試み。映画を見ることの困難さは、蓮實重彦がしばしば挑発的に述べることでもあるが、加藤氏もまた人が常に映画を見損なってしまうことに注意を促す。冒頭には、こんな言葉が掲げられている。

ブレードランナー』を見たことのない者は本書を開いてはならない。
しかしいったい誰がこの映画を本当に見たというのだろうか。

こうして始まる本書は、文字通り映像の細部に至るまで分析する。映像に映ったもの、あるいは映像とともに聞こえる音をただひたすら読み解く。何気なく見ていたら気がつかない細部にまで、分析の手は及ぶ。あるいは、画面に写っていても多くの観客が気がつかない映像を指摘する。こうした分析を読んでいくと、こんなに多くのものを見逃していたのかと改めて気がつかされる。
本書は、映画のテクスト分析としては現時点で、最高度の分析をしていると思う。映画を学ぶ者にとっては必読となる文献になるだろう。
こういう本に批判を加えるというのは、私の力量では困難なのだが、誤読・誤解を恐れずに言いたいのは、本書のような映画の鑑賞法は例外中の例外なのではないか、ということだ。つまり、視聴覚を研ぎ澄ませることによってのみ可能な映画鑑賞であろう。それでは、「普通」の映画の見方なんていうものが存在するのかと問われれば、何が「普通」の映画の見方なのか定義することは不可能に近いのだろう。
しかし、映画館であるいはビデオでこの映画を見るとき、画面の隅々にまで視線を送り、細部を逐一見逃すまいとして意識することは稀だろう。多くは、もっとリラックスした状態で画面に視線を向けているのではないか。ビデオだったら、他のことをしながら映画を見ているかもしれない。このような状態における鑑賞では、映画テクストはきっと異なる意味を産出することになるのではないか。
本書はいわば視聴覚を極限まで特化した「純粋視覚(聴覚)」(こんなものはもちろんあり得ない)が、映画テクストを読み解いたものなのかもしれない。そうではなく、もっと不純な視覚(聴覚)による映画読解というのも考えられるのではないか。今のところ、それを具体的にどうやって分析するのかまでは思いつかないが。
それにしても、このような見事なテクスト論、テマティック批評を読んでしまうと、「やっぱりテクストを読み(見て)、テクストの論理に忠実であるべきなのだ、テクストの外部に還元する批評は甘い!」などと思ってしまう。この本の注のなかで、加藤氏はジジェクに対し、ジジェクなど自身の理論にテクストを合わせているだけだ、つまり内なる欲望をテクストに投影したに過ぎないと喝破しており、その批判はもっともだ!と思う。それから、中村秀之氏のフィルムノワール論に対しても、説得力ある批判をしていて言説分析の陥穽を示していた。ともにテクストを見逃している(ジジェクの場合はテクストを見ない!)という点において、加藤氏の批判の対象となっている。
自分がどんな批評が良いと思うのか、分からなくなってきた。テクスト論も良いし、社会学的な分析が必ずしも悪いとは言えない。けっきょく、あれかこれかという二項対立が一番不毛な行為なのだ。二項対立の不毛さについては本書のなかで、加藤氏が何度も指摘している。批評という行為は、あれもこれも、つまり使えるものはどん欲に取り込んでいくしかない。テクストを一つの枠のなかに閉じこめてしまう必要はないし、まして批評する「私」をたった一つの枠にはめ込む必要もないのだろう。

「ブレードランナー」論序説 (リュミエール叢書 34)

「ブレードランナー」論序説 (リュミエール叢書 34)