「この映画を見たい!」と思わせる文章

文學界』2005年2月号の蓮實重彦「身振りの雄弁」というジョン・フォード論が面白い。名著であり、私がもっともリスペクトする映画批評である『監督小津安二郎』(ISBN:4480873414)を髣髴とさせる「投げる」という運動が見せる多様な形態を縦横無尽に論じている。そして新たなジョン・フォードの魅力を提示しているのだ。
というわけで、今回も蓮實批評にガツンとやられる。いつものことながら、この批評を読むと、ジョン・フォードの映画を見なくては!と思ってしまう。読者に「この映画を見たい」と思わせる批評、これが今の私にとって重要なのだ。
たとえば、私は以下の文章に惹きつけられてしまう。

 無意識に演じられたこの「投げる」運動が、思いもよらぬ緊張を画面に行きわたらせる。小さな波紋が水面に拡がるとき、あたかもそれがしめしあわせた合図だというかのように、何の前ぶれもなく背後の丘陵地帯に小さな女の人影が姿を見せ、斜面の砂を滑るように降りてくるからだ。つれ戻すことをほとんど諦めていた姪が、みずから彼らに近づいてきたのである。石を投げる、水面に波紋が拡がる、貴重な異性が出現する。こうしたすべてが一瞬に起ってしまったのだから、これは、ほとんど奇蹟というほかはない光景である。そんなことが現実に起こってしまってよいのだろうか。人は、「投げる」ことの主題の唐突な勝利に立ち会い、驚く暇もないままただ息をのむ。(p.131)

これは、『捜索者』の一場面を分析した箇所だ。私もこの映画を見たことがあるのだから、きっとこの場面を目撃しているはずである。しかし、私には「投げる」という何の変哲もない運動が、この場面を支えていることなど分からなかった。こうして具体的に指摘されると、なるほどそういう見方があるのかと「驚く」のだ。そして、自分自身の眼で、この場面を見て確かめたくなる。「思いもよらぬ緊張」「あたかもそれがしめしあわせた合図だというかのように」「ほとんど奇蹟というほかはない光景」「「投げる」ことの主題の唐突な勝利」「驚く暇もないままただ息をのむ」といった分析が、妥当であるのかどうかが非常に気になるからだ。
私にとって、蓮實批評の魅力とは、こうしたややキザな言い回しだ。「おフランスの人」などど揶揄されることもあるし、人によってはくどい語り口になるのかもしれない。だけど、一度この語り口にはまってしまうと、読むのをやめられなくなるのだ。一種の「病」だなと思う。