蓮實重彦『大江健三郎論』

蓮實重彦大江健三郎論』青土社、1992年9月
第一章のタイトルが「数の祝祭に向けて」とあるように、本書の主題は「数」である。大江作品の至る所に氾濫している「数字」。この数字と徹底して戯れる。数字が何を意味しているのかという深さを問うのではなく、あくまでテクストの表層にあらわれた「数字」にこだわる。蓮實批評のおなじみの方法だ。
このような方法は、時に「こじつけ」であったり「偶然」なんじゃないかという批判が現れるであろう。だから、本論中でも、時折そうした批判の可能性があることを言及する。だが、一見すると「こじつけ」のようである、数字の戯れという方法を放棄することはない。むしろ戯れを徹底する。蓮實批評ではおなじみのフレーズ「荒唐無稽」が、本書でも登場してくるだろう。「荒唐無稽」であること。これが重要なのだ。
たとえば、大江健三郎における「核時代の脅威」について、こう述べている。

大江健三郎における核時代の脅威とは、あとえば人類の絶滅といった悲観論的な世界の未来図ではなく、一なるものの悪意を律儀に体現しつつみずから複数化し、その衝撃によって複数者の運命を一なるものの意志に従属させるというその形式そのものなのだ。特権的な単数者が複数を統御してはならない。(p.197)

このような「特権的な単数者」「一なるもの」を回避する戦略が、数の戯れでありすなわち「荒唐無稽」であることは言うまでもない。真理という唯一なるものへ複数の読者の群を導く「代理人」=「言葉」に逆らいながら、本書は大江健三郎の作品を読む。一方で、大江的「作品」の言葉の配置が、「一」への到着をさせてはくれない。

まさに、大江的「作品」の言葉の配置そのものが、この種の解読や記号の概念を実践として超えているが故に、「作家」であれ意味であれ、いずれにしても特権的な一に到着することのない、つまりは空位として残された定員一を埋めることで完成されることのない読み方を試みていたはずである。(p.234)

「一」を回避するためにも、「荒唐無稽」に思われる「数」との戯れに終始するしかない。蓮實の他の批評に比べて、やや切れ味が悪いというか、なるほど!と唸らされる分析がなかったのは残念。しかし、「荒唐無稽」に徹しているところは感心してしまう。

大江健三郎論

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