舞城王太郎『煙か土か食い物』

舞城王太郎煙か土か食い物講談社文庫、2004年12月
舞城のデビュー作を読んでみる。読み終えてみると、なるほど村上春樹っぽい。冒頭の飛行機での移動場面などは、『ノルウェイの森』と比べたくなる。「どこでもない場所」なんていう言葉が、作中に何度も出てくるが、もちろんこれは『ノルウェイの森』のキーワードであることはいまさら指摘をまつまでもない。きっとこうした観点から舞城と村上春樹の類似点は述べられているのだろう。
春樹との類似として興味を持ったのは、この小説の中心人物である四郎が女性になぜかもててしまう、ということだ。自ら女性を求めなくても、女性のほうから四郎に誘いをかけてくる。四郎はある時は嫌々ながらも女性と関係をもってしまうだろう。このような「もてる男」は、村上春樹の作品の一つのパターンであること、そしてそのことは徹底的に小谷野敦氏(反=文芸評論』)によって批判されていたことを思いだす。
具体的に見てみよう。四郎は、アメリカはサンディエゴで医者として働いている。そこで、どうやら複数の女性と関係をもっていることが、冒頭の場面で語られる。飛行機に乗ってシートに落着いてから、四郎はガールフレンドたちに電話して「どうやって別れ話を切り出そう?」などと女性たちとの関係にうんざりしている。この場面だけでも、「もてない男」からすると猛烈に怒るところではないだろうか。
日本に帰ってきても四郎はもてる。ひとりは、四郎の兄一郎の妻理保子だ。理保子とは、二年前に日本に帰ってきたときに肉体関係をもったと四郎は言う。そのくせ、四郎はいつも理保子に苛立っている。苛立っているけれども、理保子から求められると四郎はすぐに関係をもってしまう。

人間の性欲というものは尽きることがない。看護婦をレイプしようとする八十歳のじいさんがいたり九十になっても巨大なエロ写真コレクションをベッドの下に隠し持っているじいさんがいたり、種の保存のための原動力はいささか過剰に備え付けられているらしい。俺の性欲だって例外ではなく絶対になくなっているだろうと思っていたのに俺の知らないところに予備バッテリーでも付いていたのか俺は気づくと理保子とコトを始めている。(p.216)

「先に触ってきたのは理保子のほうだった」と言い訳しながらも、結局「コトをはじめ」てしまい、それが面倒なことを引き起こす。それが四郎なのだ。
さらに四郎の友人の「ルパン」の不倫相手である山口ウサギにも、「ウサギは四郎さんのことわりと気に入ってたよ」なんて言われてキスされ、四郎が「俺もウサギちゃんが大好きや」と答えると、「じゃあ、やる?ウサギの《フリーになっちゃった記念》ってことで」なんてことウサギは言う。
そして、赤いダッフルコートが印象的な看護婦の旗木田阿帝奈にも、四郎は好かれている。この阿帝奈は、登場場面がそれほど多くないが、「どこでもない場所」にいる四郎が最終的にたどりつくのがこの阿帝奈なので、それなりに重要な人物だ。
四郎は言う、「俺は女をマジに好きになったことがない」と。ま、こんなダサイ言葉もどうかと思うが、とにかく四郎は「俺の性欲は処理させるためのもので」「愛の証」であったり「愛を確かめ合う手段」でもないし、ましてや「家族を作るためのものであったりはしない」と語る。そして、「クソ、でも俺は本当は親密さがほしいんだ。全てを預けてしまえるような種類の親密さが」なんて、これまた凡庸なことを口にし、「揉んだり吸ったりするためだけのものじゃない女の胸。大きさなんて関係ないと思うような胸。ただ俺の頭を優しく埋めてくれさえすればいい。薄くたって厚くたっていい。暖かければいいんだ。俺はその胸に頭を載せてゆっくりと眠りたい。守られて眠りたい。」といういかにもフェミニズム批評でつるし上げをくらいそうな欲望をあきらかにするのだ。
そう、この小説は眠ることができず、つねにすやすやと眠りたいという欲望を持つ四郎が、最終的に安心して眠ることができる場所を探し当てるという物語なのである。四郎は何度も眠りたいということを口にする。そのために精神安定剤なども用いていた。そんな四郎が「眠っているんだが起きているんだか判らない境界線上」にいるところから物語は始まる。そして、四郎は眠りを得るために、睡眠を妨げていた事件を解決することに奔走し、安心して眠れる場所(=阿帝奈)を確保することによって「赤ん坊のように深々と眠り続ける」ことになるだろう。そんな四郎にとって、女性とは安らかな眠りを提供するベッドでしかないのではないか。女性をベッドにすることができるのは、やはり「もてる男」のなせる技だ。「もてない男」では絶対になしえないことだろう。舞城は、こういうところを村上春樹から学んだのだろうと考える。

煙か土か食い物 (講談社文庫)

煙か土か食い物 (講談社文庫)