ドナルド・リチー『小津安二郎の美学』

ドナルド・リチー(山本喜久男訳)『小津安二郎の美学−映画のなかの日本−』社会思想社、1993年3月
蓮實重彦の『監督小津安二郎』では、批判の対象として取り上げられていた本だが、それはおそらく批判の対象とすることができるぐらい、優れた小津論であったからだ、と思う。
蓮實重彦の本を読んだ後では、たしかに本書の欠点は目につく。が、しかし、小津論としては今でも十分に参考にできる本なのではないか。私はそう感じた。本書は、脚本、撮影、編集と映画製作の工程を辿るように、それぞれ分析していく。小津の映画作りのプロセスを追いかけることによって、小津映画の意味するところを解釈していく。
その際、安易に日本の伝統文化や習慣、あるいは東洋と西洋という枠組みや仏教といったものにすぐに当てはめて理解しようとする。本書の欠点は、そうしたものに何の疑いもなく言及してしまうことだろう。こういう批判自体が今や紋切り型なので、これ以上私は批判を加えることはしない。それよりも、本書で卓見だと思った箇所を一つ挙げてみよう。

 映画の時制はつねに、そしてもっぱら(フラッシュ・バックというものがあるにしても)現在形であり、これが映画の永遠の魅力の一つである。それが疑いもなく今であるかぎりにおいて、私たちは観客席に喜んで座り、何でも見るだろう。しかし、それが単なるフラッシュ・バックや何かの説明や要約であった時、私たちは苛立ちを感じる。私たちのこの感想は正しい。なぜなら、感じることが可能なのは、今しか、この現在の瞬間しかないからである。それ以外はすべて推測である。おそらく小津が、どんな形にせよ〔芸能の上演という形にせよ、仕事の遂行という形にせよ〕"規定された行動の遂行"というものを好んだのは、この理由によるのだ。小津はこの二つの意味での"規定された行動の遂行"を強調するからこそ、俳優の存在を強調し、彼らを引きたたせ、画面のなかでいちばん目立つものにするような絵画的構図に人一倍固執したのである。(p.201)

この分析は、なかなか面白い。

小津安二郎の美学―映画のなかの日本 (現代教養文庫)

小津安二郎の美学―映画のなかの日本 (現代教養文庫)