三島由紀夫『美しい星』

三島由紀夫『美しい星』新潮文庫、1967年10月
ある日、円盤を目撃したことから、自分は地球人ではなく宇宙人なのだと悟った家族の物語。エンターテイメントの小説ではなく、「純文学」のなかで、こんな荒唐無稽な設定の物語を書いた三島。しかも、けっこう面白い。三島はこの小説を書くために円盤観測の会に参加し、一時期かなり円盤に興味をもち、その実在を信じていたという。
カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)
ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
この小説で圧巻なのは、第八章と第九章である。ここでは地球を滅亡することを企む羽黒助教授一派が、主人公の大杉重一郎と対決することになる。地球を救い出すべきか、滅ぼすべきなのかということを巡って、延々と議論を戦わす。文庫の解説の奥野健男も言うように、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の場面を思い浮かべるのも無理はない。当然、『カラマーゾフの兄弟』との影響関係を考えられる場面である。奥野は、「『美しい星』は、日本における画期的なディスカッション小説であり、人類の運命を洞察した思想小説」と評している。「ディスカッション小説」と聞けば、バフチンの「対話」ということになるだろう。
宇宙人であることを意識している大杉一家は、父重一郎、妻伊余子、長男一雄、長女の暁子の四人家族である。この家族で、重一郎はある種のカリスマ性を持っており、一雄は「政治」、暁子は「美」を担う役柄になるが、妻の伊余子だけはなんの特徴もない。宇宙人という意識はあるものの、そのほかには何もない妻というのは、けっこう辛いのではないか。
だから、夫が癌であることが判明したとき、ひどく通俗的な行動にでる。

 伊余子はこの宇宙人の家族が、彼女を除外して、一つの秘密のために結託したという風に感じたのである。そのとき秘密の性質がどんなに人間的なものであれ、彼らは超人間的な直観でそれをつかんだにちがいなかった。何事につけ常識外れの良人や子供たちが、ひそかに伊余子の平板な感受性や古風な堅実さを莫迦にしているのではないかという怖れは、かねて彼女の心に巣喰っていた。こんな仲間外れが面白くなかった伊余子は、この大事な瞬間に、却って自分の乏しい直観に対する虚栄心を働かし、しゃにむに秘密に参与したふりをしようと力めた。
 伊余子はベッドの端に崩折れて、泣きじゃくりながら、こう言った。
「ごめんなさい、……知っていたんです……知っていたんです……どうしても言えなかったの」(p.346)

周囲が才能を持っているのに、自分には何もない。だけど、自分は「普通」の人間ではないという意識=虚栄心が、どうしようもなくつまらない演技へと走らせる。とても宇宙人らしくない伊余子の振舞いなのだけど、私は共感してしまう。物語では、伊余子一人、ほとんど語られることのない人物なので、余計に愛おしくなるのだ。もっと、良い役割を与えてあげれば良かったのに!

美しい星 (新潮文庫)

美しい星 (新潮文庫)