三島由紀夫『真夏の死』

三島由紀夫『真夏の死』新潮文庫、1970年7月
短篇集。どの短篇も面白い。そのなかでも、「真夏の死」が一番良かった。
三島自身の解説によると、「真夏の死」も実際に起きた事件を人に聞いて、それを基にして書いたという。そして、最後の一行に眼目があるということだ。
三島は、これを頂点として、「円錐体をわざと逆様に立てたような、普通の小説の逆構成を考えた」(p.292)と書いている。つまり、冒頭に子ども二人と夫の妹の3人を亡くすという「破局」を三島は置いた。このようにすることで、三島は、ヒロインの「朝子」を「椿事を待つ」三島的な人物として描き出している。
朝子は、小説の冒頭で起きた「悲劇」から受けた傷が徐々に日常生活に溶けていくのを、「羞恥のまじった別の恐怖」として感じる一方で、そのことが「ふしぎな充実感」を以て家族を支えているのではないかと思っている。すると、朝子はこのような事態に「退屈」を覚えるのだ。

 一家は気も狂わなければ、自殺者も出さなかった。病気にさえ罹らずにすんだ。あれだけの悲惨事がほとんど影響を及ぼさず、何も起らずにすんだことはほぼ確実であった。すると、朝子は退屈した。何事かを待つようになったのである。(p.182)

三島は、これをこの小説の主題をとした。

 即ち、通常の小説ならラストに来るべき悲劇がはじめに極限的な形で示され、生き残った女主人公朝子が、この全く理不尽な悲劇からいかなる衝撃を受け、しかも徐々たる時の経過の恵みによっていかにこれから癒え、癒えきったのちのおそるべき空虚から、いかにしてふたたび宿命の到来を要請するか、というのは一編の主題である。(p.292−293)

過酷な体験をし、その辛い体験を時とともに癒され、再び《日常》が戻ってくるのだが、一度《宿命》を経験してしまうと、《日常》に退屈してしまう。そして、再び《宿命》がやってきて破局が訪れるのを願うようになる。ひとたび《日常》を突き破ってしまった人間は、もう《日常》の連続に満足できなくなってしまう。朝子は、このような三島の小説によく出てくる登場人物の一人なのだろう。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)