三島由紀夫『青の時代』

三島由紀夫『青の時代』新潮文庫、1971年7月
これは面白い小説だった。三島の小説を読み続けてみて、私は三島の恋愛物の小説(戯曲は別)は好きではないが、この小説のように「社会」や「時代」を批評的に描き出す小説が好きだ。シニシズムというのか、あるいはニヒリズムと言えばよいのか、ともかく社会や大衆に対し、冷めたまなざしを送っている三島の小説は良い。
この小説は、戦後に起きた「光クラブ」の事件をモデルにした小説。この事件で自殺した東大生の山崎晃嗣をモデルにいわゆる「アプレ世代」を描いたと言われる。
頭は良いのだが、観念的。しかも合理的な計算に基づいて行動する青年は、他人とうまくコミュニケーションがとれない孤独な性質を持っている。こういう人物が、「社会」や「大衆」を軽蔑しながら対立するわけだ。
「社会」のついて、次のような描写がある。主人公の「誠」が「太陽カンパニイ」という会社を始めたときのことだ。

 まだ動かない。……誠は不安になった。社会というものが、はじめて彼にはなまなましい実在として感じられた。この無形の実在、不機嫌そうに黙っているこの巨大な暗黒の動物、それが壁一重むこうにとぐろを巻いているように思われる。それは脈を搏ち、喰い、呑み、恋をし、眠るのである。これに対して人は無力で、多くは勤め人になって隷従するか、商人になって媚を売るかである。近代が発明したもろもろの幻影のうちで、「社会」というやつはもっとも人間的な幻影だ。人間の原型は、もはや個人のなかには求められず社会のなかにしか求められない。原始人のように健康に欲望を追求し、原始人のように生き、動き、愛し、眠るのは、近代においては「社会」なのである。新聞の三面記事が争って読まれるのは、この原始人の朝な朝なの生態と消息を知ろうとする欲望である。つまり下卑にだけ似つかわしい欲望である。そしてその出世の野心は、たかだか少しでも主人に似たいという野心にすぎない。(p.108)

大衆社会における欲望の原理を非常によく捉えており、とても興味深い一節だと思う。

青の時代 (新潮文庫)

青の時代 (新潮文庫)