小津安二郎『お早よう』

◆『お早よう』監督:小津安二郎/1959年/松竹大船/カラー/94分
東京物語』や『晩春』のような、しっとりとした抒情的な作品も良いのだけど、小津は喜劇もうまい。この『お早よう』も、子どもたちのたわいない行動が、大人たちを振り回し一騒動起こすという内容。
実と勇の兄弟は、テレビを買ってくれと両親にせがむ。しかし素気なく断れる。駄々をこねていると、父(笠智衆)に「黙れ」と叱られる。そして、この言葉を二人ともベタに実行する。すなわち、一切言葉をしゃべらなくなるのだ。
とうぜん、日常生活に不便をきたす二人なのだが、ある日給食費を学校に持って行かなくてはならなくなる。だけど、両親とは話せないので、そのことを伝えることができない。ここで、ジェスチャー給食費のことを伝えようとするのだが、尽く失敗し、二人は給食費を貰うことをあきらめる。
しかしここで疑問なのは、どうして二人は紙に「給食費をくれ」と書いて伝えなかったのだろうか、ということだ。これなら話をしないですむし、きちんと親にも情報が伝わるのに。だが、それをしないということは、この二人の子どもは、ただ単に両親と口をきかないということを実行しているのではなく、「言葉」そのものを使わないことを実行しているのだろう。そもそも、みのるは、大人は無駄なことばかり話している、たとえば「お早う」「こんばんわ」とか「良い天気ですね」「そうですね」など、言わなくていいことばかりだと大人を批判していた。
ここでは、身振りという記号と言葉という記号の二つが対比されていて面白い。身振りは、あまりにもノイズが多くて、発信者の意図がなかなか伝わらない。身振りという記号が、あまりに多様な解釈を許してしまう、そのことを利用したギャグだ。
一方、みのるが批判する無駄な「言葉」とは、かぎりなく意味(情報)がゼロに近いものだ。しかし、内田樹*1も論じているように、コミュニケーションは、なにも意味や情報のやりとりだけではない。「言葉」そのものを交換しあうこと、それ自体がコミュニケーションとなることは重要だ*2
記号の戯れ、そして記号そのものをやりとりすること、記号が持つこの二つの特徴を、この映画は提示している。この映画は、テレビが物語の重要なモチーフとなっている。映画のなかでは、笠智衆がちょっとしたテレビ批判(その批判は「テレビは総白痴化をもたらす」というある意味紋切り型の批判だったが)口にする。テレビというモチーフの導入は、もしかすると、テレビの普及と映画の衰退という状況を見通したものなのだろうか。しかし、私はそれよりも「記号」とは何か、ということを示した映画であり、さらに突き詰めると「映画」とは何か、ということを映画で語ろうとした「メタ・映画」なのではないか、と感じた。

*1:参照『現代思想のパフォーマンス』

*2:小津の映画に特徴的な単純なセリフのやり取りが、「言葉」そのものを露出させるというような蓮實重彦の指摘もある。参照『監督小津安二郎』。