永井均『私・今・そして神』

永井均『私・今・そして神――開闢の哲学』講談社現代新書、2004年10月
<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス
久しぶりに永井均の本を読んだ。私は、同じ講談社現代新書から出ている『「子ども」のための哲学』が好きなので、この本もけっこう楽しみにしていた。
永井均は、いつも自分の問題を自分のやり方で解いていくという感じで、その姿勢に憧れる。まあ、そうして独自の哲学を展開してきたのだが、それが「神の存在証明」という哲学の王道のような地点に来てしまったことが本書で明らかになる。だから、タイトルに「神」なんて言葉がついていたのか。
それでも、永井的な哲学は続く。存在論的証明の脅威は、「それが正しいならどの神についても一般的に成立してしまうこと」で、つまり「現に存在しているあの神を、それだけが現に存在しているあの神を指せない」。デカルトの「我思うゆえに我あり」も同様。それが正しいならば、現に存在している「この私」を指せない。デカルト自身、この言明は誰にでも当てはまると言うのだから。(p.184)
後半は、「私的言語」の問題を扱っており、この箇所は改めてじっくりと読みたい。私自身、一番興味のある問題なので。私的言語の不可能性から私的言語の可能性へ。すべての始まりとしての私的言語。

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)