痛いところ突かれた

石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書
以前、読んだ本だけど、「小説を読めるようになるにはどうすればいいのか」という根本的な悩みを解消するために、読み直してみる。
受験用に書かれているはいるのだけど、時折見せる石原氏の「読み」はさすがだ、と感心する。この「読み」の技術は、才能と経験のなせるわざか?私は、その両方が欠けている。
ところで、石原氏はたびたび最近の理論(カルチュラル・スタディーズなど)を使った研究を批判しているのだけど、この批判は私にはかなり耳が痛い。
氏が言うに、カルチュラル・スタディーズという便利な理論のために、「「小説読めない」研究者はホッと一息ついている」だろうと。要するに、最近の文学研究は、テクストの外部に頼っているということだ。そこではテクスト内の言葉を一語一語吟味しながら読むことでテクストを論じるのではなく、テクスト外の資料を大量に持ち込むことによって、テクストを論じていく。これが、小説を読めなくしている原因だと石原氏は指摘している。

現代の理論書は、文学理論を含めて文学の外側から論じるものがほとんどなのである。そういう傾向がはっきりしはじめてから十年ほど経つだろうか。いま、それらはカルチュラル・スタディーズという名の下に集約されつつあるが、これが「小説が読めない」理論なのだ。(p.311)

私は、つねに自分が「小説が読めない」ことに苛立ち悩んでいるのだけど、「読めない」原因としては、私もついテクストの「外側」に頼ってしまうからなんだなあと思う。外側を利用するのは、便利というか楽なのだ。しかも、あまり知られていない資料などを持ち出すと、それだけで「価値あり」と認めてもらえるし。往々にして、テクストをつまり小説を読むことから遠ざかり、珍しい「資料」を発掘することに力を入れることになる。学問の世界で生き抜く、ということはそういうことだ。
私自身、いつも論文を書き終えると自己嫌悪に陥る。それは、また外部に頼ってしまった、小説を読めなかった、という後悔だ。文学を「読む」ということを誠実に行っている研究者に対し、いつも後ろめたい気持を抱いている。やはり、文学研究者でテクストの言葉と正面から立ち向かっている人は強い。人間、楽な方法に逃げてはいけないなと思う。
ああ、小説が「読める」研究者になりたい!