「出来事」としての「読む」こと

かつて、表象文化といったものが流行した時、「出来事」という言葉がキーワードになっていた。たとえば、小森陽一『出来事としての読むこと』とか小林康夫『出来事としての文学』などがある。この2冊の本は、私がちょうど文学研究に興味を持ち始めた頃に読んだ。当時は、まだ文学研究のことが何も分かっていなかったので、これらの本の内容を理解できなかった(いや、たぶん今も理解できないかも)。分かっていないくせに、それでも分かったふりをして、これはすごく面白い本だと言っていたと思う。
それはともかく、その後、この「出来事」というキーワードを文学研究の世界で、パタリと聞かなくなったような。今でも、「出来事」を使って批評なり研究論文を書いたりしている人はいるのだろうか。ちょっと気になる。
この言葉が目立たないというのは、今や当たり前すぎるぐらい浸透しているからなのか、それとも全然使い物にならないものだったのか。私は恥ずかしながら、今頃になって「出来事」として「読む」ということの意味を理解しはじめたので、自分でもこれを使って研究をしたいなあと思っている。もしかして古くさいなあと思われるのではないかと思い、恥ずかしい。
でも、作品というものを作者の意図が実現された固定されたものとみなすのではなく、「作品」を作り手と受け手のさまざまな観念が衝突・葛藤する「場」(=テクストというのだろう)として捉えるのが、昨今のカルチュラル・スタディーズの方法なのだから、そうかんがえると「出来事」という概念は、テクスト分析においては当然のことなのかもしれない。なかなか私は研究の流れに追いつかない。もっと必死に追いかけないと。