癌というメタファー/メタファーとしての癌

昨日は、『好き好き大好き超愛してる。』を「病」の文学として検討してみたが、かなり大雑把で異質な要素が混在していた。あれでは、かなり不正確な読みでしかない。一番悪いところは、「病」として「結核」を持ち出したことだ。この小説では、「結核」の文学とは言えない。これは「癌」の文学なのだから、「結核」と「癌」をきちんとわけて考える必要があった。その点、かなり乱暴な記述となっていたのだ。
現代では、結核が治療可能な病気となり、文学におけるその意味作用の力も落ちている。結核に変わって、強力な意味作用を持ち出してきたのが「ガン」である、とソンタグは指摘する。『大学受験の…』のなかでそのことが触れられているので、参考のために引用してみよう(本当はソンタグ『隠喩としての病』を読まねばいけない)。

ついでに言うと、ソンタグは、結核が抗生剤の発明で治る病気になった現代では、最も意味作用の強い病はガンだと言う。ガンはまるで「侵略者」のイメージで語られ、そのためにガンの治療は「戦争」の比喩で語られていると言う。ソンタグ自身ガンからの「生還」を果たした女性であるだけに、説得力を持つ議論だ。ガンが日本人の死因の三割以上を占める現在、あまり好ましい比喩ではないが、「あいつは会社のガンだ」と言えば、その意味するところは誰にでも通じる現実が、ガンが最も強い意味作用を持つ病であることを証明している。(p.274)

『好き好き大好き…』では、ガンのメタファーとしてさまざな形を通して語られるのだが、昨日の日記でも指摘した「智依子」と題された冒頭の章に登場する肺に入り込んだ虫(ASMA)は、まさしくソンタグの指摘したとおり、「侵略」「戦争」のイメージをまとっている。
「侵略」は、もちろん人間の身体の内部に入り込んでいることからもあきらであるし、ASMAを取り除く手術を医者が戦争の喩えている。「戦争」のイメージは、この「智依子」の章だけではなく、「ニオモ」という章も同じ。「ニオモ」の章は、「神」との戦いを描いているので、戦争そのものなのだ。つまり、「ニオモ」の章全体が、ガンと戦う女性とその恋人のメタファーつまり「柿緒」の闘病生活のメタファーということになるのだろう。