たとえ「幻想」だとしても

「小説読者の質は果たして落ちたのだろうか*1」について、少し考えることがあったのでメモしてみる。
佐藤亜紀の「この世からは小説を読むための最低限のリテラシーさえ失われてしまったらしい」という意見に対し、筆者は違和感を覚えるという*2。その理由として、「「昔」とか「かつて」が「上等」で、「現在」や「いま」が「劣等」であるという議論は、気をつけたほうがいい」からだとする。そして、メルヴィルは『白鯨』以降の作品で、同時代人に評価されなかったことや、ホーソンも当時の「センチメンタル・ノベル」に対し、うらみつらみを日記を書いているなど例に挙げ、昔から「エモい人」はいたのだと主張する。そして、いつの時代も「小説の質」は低いのだという。
これは、はなはだまずい書き方だと思う。これだと、あらかじめ「小説の質」なるものが存在しているかのような印象受けてしまう。だが、筆者はすぐ近くで、こうも言っている。すなわち「何か凄い「技術」やら「理論」が最初から存在していて、そしてそれらを使って読み解かれた「解釈」や「批評」がテクスト内部に最初から存在しているように見えるのは、歴史的なる重層が存在しているからである」と。そうであるならば、小説の質の低さもまた、「歴史的な重層」によって決定されるはずで、ある小説の書かれた瞬間、その質が低かったなどということはあり得ないだろう。小説の質などは、筆者の考えからすれば、テクストの内部に存在するはずがない。それなのに、どうして「実際のところ、小説の質は、いつだって低いのだ」と言う本質論がでてきてしまうのか。
さらにおかしな言い方が続く。筆者は「もっと言わせて貰うならば、その瞬間における「読み巧者」がその小説を読んだところで、それをちゃんと理解できるかどうかは、怪しいものだ。現に、ホーソーンの様な読み手としても優れていた小説家は、弟分ですらあったメルヴィルの『白鯨』のことを、さっぱり理解できなかった」と言い、「読み巧者」ですら理解できないのだから、「いわんや、凡人たる我々をや」と述べる。たとえホーソンのような「読み巧者」が『白鯨』を理解できなかったからといって、「凡人」が理解できなかったとはならないはずだ。当時、無名の一「凡人」読者が『白鯨』を理解していたかもしれない。というか、そもそもここで「ちゃんと理解できる」と筆者は言うが、何をどう「理解」すると「ちゃんと理解」したことになるのだろう。『白鯨』の読みには、唯一の正解があるとでもいうのだろうか。――
さらに次のパラグラフもおかしい。「差異が、歴史的な瞬間へと代表的に収束されてしまうことが問題なのだ。いつでもそうなのだけれども、後に大文学になる「作品A」は、歴史的な経緯をへて、「作品A’」「作品A’’」「作品A’’’」・・・・と、時代時代の解釈枠組みを経由しながら、自らの作品としての意味を変容させていく。つまり「作品A」が、「大文学A」に後に変化したとして、その「大文学A」に積み重ねられた差異の歴史を、あたかも最初からすべて存在している如くに言うのは、間違っているということだ」という主張はその通りだと思う。だが、問題はこのあとである。筆者はこう続ける。

作品は読めないものだし、読めるのはすでに「読まれた」ものだけだ。そして、自分の解釈は、決して他者とは交わらないし、また、これは徹底的に言いたいことだけれども、自分の読解が作者の意図と交わることも決してありえない。そもそも、作者の「意図」なんてものは、そこには存在しない。もっと言うならば、文学においては「作者」などは必要ないのだ。

作品が読めないとはどういうことだろう。読めるのはすでに「読まれた」ものだけならば、そもそも差異などありえない。差異がなければ、作品の意味の変容する余地など、どこに存在するのだろうか。しかも、自分の読みは他者と交わることすらないとすれば、それは「オリジナル」な解釈であって、「読めるのはすでに「読まれた」ものだけだ」という主張と矛盾している。
昨今、耳がタコになるくらい言われていることだが、小説の読解において、「作者」の「意図」を「正しく」読む必要はまったくないし、おそらくそんなことは不可能であろう。しかし、だからといって現実に存在する作者が、何の意図も考えずに小説を書くなんてことがあろうだろうか。付記の箇所で、「作者は読者を、操ることが出来ればいいのだ」と書いているが、「操る」という「意図」があるではないか。
要するに、現実に存在する作者の「意図」のみが「正しい」のではないということだと思う。つまり、万人に適用される唯一絶対の「意図」などは存在しないだけであって、作者は作者なりに「意図」を想定することもあるし、読者は読者なりにテクストから「意図」を自由に読むことはできる。また同様に、唯一絶対の「作者」なんてものも存在しないだろうが、テクストの効果としての「作者」はありえそうだし、そのような「作者」と現実に存在する作者の差異が、テクストの読みを深めることもあるだろう。したがって、「文学においては「作者」などは必要ないのだ」とは必ずしも言えないのだ。繰り返すが、唯一絶対の「作者」なるものが考えられないだけだ。それを「いない」とするのは、誤解か曲解ではないだろうか。
そう考えれば、作者と読者の、あるいは読者同士のあいだで、それら各々が読み取った「意図」が交わることもあるだろうし、まったく交わらないこともあるだろう。小説の読みとは、そんなものだろうと思う。むろん、作者と読者が無理矢理共感する必要もないのはたしかだ。筆者の言うとおり、他者との共感は幻想かもしれないが、他者と共感した(かもしれない)と信じることはあり得る。それを幻想だとし、絶対的な距離ばかり強調するのはいかがなものか。幻想だからダメというのは、一時期の典型的な国民国家論の主張だ。私としては、「共感」することを否定的に考えたくない。別のとらえ方はないのか考える必要があるのではと思う*3
あと、ほかにもおかしいと感じるところがあって、たとえば「「現在」において大文学的な位置づけを与えられている大江健三郎村上春樹の作品が、百年後も同じように大文学足りうるかと言うと、決してそうではない」のは良しとしても、続けて筆者は、これらが「文学」として見なされず、「記録的言語、歴史的アーカイブ、言語資料」になれば、「どう読んでやろうかという戦略的視点」は適用されまいという。しかし、この箇所はいまひとつ理解できない。
また「読者が作者と「伴走」したことがあると考えるのが幻想なのだ」として、「読書は孤独だし、執筆はもっと孤独だ」というが、そもそも読書が孤独な行為になったのは、歴史的な出来事であって、読書行為が本質的に孤独なのではない。執筆も同様に。――
提起している問題は興味深いが、論全体は思い込みが強く、本質論を否定しているのに筆者自身は本質論者になってしまっている。非常に残念な文章だと思う。

*1:http://anotherorphan.com/2006/06/post_308.html

*2:ちなみに、私は佐藤亜紀の文章に違和感を覚えなかった。

*3:思いつきだが、たとえば「共感」を「公共性」の問題へ繋げてみるとか。そうしたとき、「小説をどう読んでやろうかという戦略的視点であり、読みながらの書き手との駆け引きであり、その過程における推論と臨機応変な軌道修正の能力だ。書き手の手筋を読むには単なる情報の処理能力だけではなく、それ相応のデータの蓄積が必要となる」という佐藤亜紀の文章が重要になってくる。この「データ」を稲葉氏の言う「教養」と言いかえてもよいのかもしれない。もちろん、「教養」がなければ小説は読めないと主張するわけではない。