「解釈」について考える

石原千秋テクストはまちがわない』をちょろちょろと読み始める。昨日『デイヴィドソン』を読み終えたところだから余計にそう感じるのかもしれないが、この石原氏のテクスト論はどうもデイヴィドソンの哲学と近いものがあるのではないか、と思っている*1
たとえば、「テクストはまちがわない」の冒頭部分を引いてみよう。

私たちは、小説を読んでいるとき、程度の差こそあれ常に解釈を行っている。そのとき、目の前の本文はまちがいのないテクストとしてある。どこかに引っ掛かりがあっても、ほとんどの場合、私たちの解釈行為はその引っ掛かりを飲み込んでいく。そして、そのことに成功したとき、私たちは小説が読めたと思う。つまり、小説を楽しんだという実感を持つ。この実感を支えるのは、やはりテクストはまちがっていなかったという前提、活字に対する信頼である。(p.8)

孫引きになるが、森本『デイヴィドソン』から、寛容の原理について説明したところを引用してみる。

話し手がどの文を真と見なすかということしか、われわれにはわかっておらず、しかも彼の言語とわれわれの言語が同じとは考えられない場合、われわれは、話し手の信念に関してひじょうに多くのことを知っているか仮定するかしない限り、解釈の第一歩さえ踏み出すことができない。しかし信念に関して知ることができるのは、ことばを解釈できる場合だけであるから、出発点における唯一の可能性は、信念に関する幅広い一致を仮定することである。
[中略]寛容はひとつの選択肢といったものではなく、使いものになる理論を得るための条件である。それゆえ、それを受け入れればとんでもない間違いを犯すことになるかもしれないと考えても意味はない。真であると見なされた多くの文どうしの体系的な連関をつくり上げることに成功しないうちは、間違いを犯すこともありえないのである。寛容はわれわれに強いられている。他者を理解したいのであれば、好むと好まざるとに関わらず、われわれは、たいていの事柄において他者は正しいと考えなければならない。(p.53の引用部分から)

石原氏によれば、「誤植という判断も一つの解釈の結果」(p.16)ということになる。こうした様々な判断をもたらす「解釈」という行為が重要になる。そして「解釈」は結局「他者は正しい」と考えるところから出発するということになるだろう。テクストはまちがっていない、あるいは他者は正しいなどというような信念がないと、そもそもコミュニケーションが成り立たないのか。
どうもまだうまく理解できない。もっとすらすら説明できるようになると良いのだけど…。やはり、「解釈」ということに関しては、ニーチェあたりから勉強していかないと。この研究テーマもけっこう面白そうだ。以前から、文学と哲学を組み合わせて何か出来ることはないかと思っていたが、こんな感じで「解釈」の哲学にすれば、けっこう面白い研究が出来そうな気がしてきた。

*1:とは言うものの、私はまだデイヴィドソンの論を直接検討しているわけではないので、あくまで推測の範囲を越えないものだが。