昨日(2004年9月1日)の日記のつづき

さて、危うさを含んでいるけれど、先にも述べたように、本書は文学研究の現状批判は傾聴に値するところがある。そのうちの一つに、私が以前考えていたことと近いことが書かれてあった。
私がこの日の日記*1のなかで書き殴ったことは、こういうことだ。つまり、オリエンタリズム批判をする研究者は、どこかに「真実」を想定していて、その「真実」を小説家なり画家なりが「正しく」描いていない、だから批判するという論調になってはいないか、ということだった。
これと近いことを、すが氏も指摘していると思う。
すが氏の指摘は、こうだ。物語分析に端を発する現在の文学研究において、小説のナラティヴ(つまり「語り」)はけっして透明なものではない、ということが前提となっている。そこから、ナラティヴが隠蔽しているもの、排除しているものを暴き出す、というのがたとえばポストコロニアルフェミニズムカルチュラル・スタディーズ、あるいはニューヒストリシズムに至るまでに見られる傾向である、と。
では、こうした研究の問題点は何か。すが氏は、次のように批判している。

「蒲団」から『生』への軌跡を追ってきて知られるのは、「自然」主義とは「非−真理」の排除・隠蔽にほかならないということであった。これとは逆に、今日の諸研究は作品こそ悪しき「非−真理」であり、それによって抑圧・隠蔽された「真理」を回復すべきだという立場を取っているということになる。彼らが作品を「非−真理」として措定するのは、それが十全な「真理」として再建されるべきだからである。(…)作品の外に「真理」を設定するとは、小説という「非−真理」のジャンルへの思考を回避することに帰結するからである。それと同時に、それはありうべき「真理」としての小説を夢想しているわけだから、「存在しない」ものに憑かれているという意味で、小説に対する無批判なフェティシズム的倒錯を内包している。その意味でも、「自然」主義イデオロギーはいまだに延命しているといえよう。(p.110)

私は、ここに言われているように、「抑圧・隠蔽された「真理」」なるものに疑問を感じていたので、私の言いたかったことがここで上手に言語化されていると感じた。私の不満は、こういうことだったのだ。
注意しておきたいのは、すが氏はポストコロニアルフェミニズムなどの研究成果を全面的に認めていないわけではない。こうした研究が暴いてきた事柄はたしかに重要なことなのだ。私も、抑圧や隠蔽されてきたものなど、どこにもなかったのだ、そんなものはねつ造だ、と居直っているわけではない。たしかに、従来の文学研究では、見えなかったもの、意識的か無意識的に無視してきたものを、可視化させたということでは、ポストコロニアルフェミニズムカルチュラル・スタディーズはそれなりの成果をあげてきた。その中にはとても面白い研究もあった。私だって、これらの研究方法を使って文学研究をやってみたいとも思う。しかし、「植民地」や「女性」には唯一の「真理」があって、それを回復しなくてはいけないとか、あるいはそこまであからさまでなくとも、どこかに「真理」があるかのように、従来の視点なりナラティヴを批判している研究には注意する必要があるのだ。
ここではじめに戻ってみると、さらにほかにも問題なのは、こうした研究がはじめにもっていたようなインパクトを失われ、単なる研究論文の一つのフォーマットに陥っている、ということではないだろうか?。「植民地」とか「女性」とか持ち出すと、それなりの研究として認められ、業績になってしまう。たとえば、小熊英二氏の研究はかなりのインパクトがあったと思う。そして、この研究が一定の評価を得ると、あとに続く者はただ同じやり方、同じ結論を踏襲しているだけなのではないか?、と自分自身も含めて批判してみる。模倣している者は、模倣しているという自覚がないだけ、状況は悪くなっているように思えるのだが、どうなのだろう。

*1:つぎの日記を参照のこと→id:merubook:20040511